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石黒 徹エッセー集
『平和でなければ』

明峯労山機関誌「めいほう」に長年にわたって投稿されている石黒さんの思いを綴ったエッセーです。

 号 題名 
237 わたらせ渓谷鉄道 
 236 持続的可能な社会できる? 
235 私の藤沢周平 
 234 LGBTQ反対は自民だけ? 
233 森保一監督 
232 光風動春 
 231 流木は宝 
230 寅とマドンナたち 
 229  「乗り鉄」でなく「飲み鉄」
 228 2冊の単行本 
227 たなか屋と万灯呂山 
 226  Dr.中村哲 35年の記録
225  ピュアな人々
224 洛中と麺① 
 223 小説の書き出し 
 222 私のお守り 
 221 あの頃の私 
 220 1987年の記録 
 219  乗務員の「おもてなし」
 218 登山バッチ 
217  棚の上のヴァイオリン(下)
 216 母はどんな人だったのですか 
 215 真夜中のラーメン 
 214 洛中の穴場③ 
 213 行ってみたい2つの島 
 212 芝居の力 
 211 私の初夢 
 210 チョット嬉しいこと②
 209 「企業広告」の鏡 
208  岡目八目
207 ふわふわオムライス
 206  ちょっと嬉しいこと
205 205号までの寄稿一覧 
 204 棚の上のヴァイオリン(上) 
 203 パッチギ 
 202  教えたくない老舗
201  映画音楽からの推察
 200 隣の芝生 
 199 残された時間 
198  洛中歳時記 
 197 届いたメール 
196  Café Owl 
195  洛中の穴場② 
 194 遊びの達人たち 
193  朝食の会話 
192  私の地形図 
191   知ろうとしない現実
 190  洛中の穴場
189  今(チグム)・高麗(コリヨ)美術館(ミズルウグアン)
 188  誰もかれもの頃
 187  漫才シナリオの下書き
186 今年の書きさし色々 
 185 荒野の二人展 
 184 フリーソロ 
 183 パチンコ屋さんの今 
 182 めいほうの取説 
 181 ビブリオバトル? 
 180 福祉路線の旅 
 179  リクエスト曲
 178 3回目の出演依頼
 177 カズオに巻けた 
 176 昔々々「黒部日電歩道」 
 175  来し方行く末
 174 ラ・カンパネラ 
 173  又吉の2作目「劇場」
 172 山岳救助隊からの電話 
171  香魚の年 
170  「見えない人々」の世界 
 169 ラ・カンパネラ 
168  エドワード・ヤンの世界 
 167 勝手に42周年記念誌 
 166 城の崎はぎゅう? 
 165 コピ・ルアック? 
 164 さすが日本の銭湯 
 163  笠形山温泉考
 162 今年の書きさし色々 
 161 いっぱいの思い出② 
 160  冷蔵庫の鍵
 159  本当の味・びお亭(上)
 158 再読の奨め 
157 人生下り坂最高
156  コーヒ年度
 155  学友たち
154  いっぱいの思い出
153  青春の滾り
 152 しりませーん 
 151  大叔父さん
150 私は小物②
149  わすれじの
148  ある日の大阪
 147  マイケル・ムーアの世界
 146  米寿の演技
145  選ばれた器
 144   家族はつらいよ 
 143 私は小物 
 142 若者たちの明日 
 141  4穴のハーモニカ
 140 ゴリラの選挙 
 139 プロの技
 138  英語のお大師様
 137 カレンダー
136  うわさの「火花」 
135   宇治川のうなぎ
 134  行ってみたかった山
 133  70歳の大学生
 132  饅頭こわい
 131  最後の一歯
 130 行ってみたい国 
129 急ぎ働き 
 128 9つの交響曲
 127 魔法の色鉛筆
短編小説の練習?その1
 
 126 清浄(せいじょう)歓喜団(かんきだん) 
 125 日々
 124 綾野剛のCM
 123 本当の演奏会 
122 新しい地図 
 121  散骨の天皇
120 大笑いの芸術 
119  ぜんざい 
 118 ハンバーグ日和 
 117 私の仕事館 
 116 女子会乱舞② 
 115 女子会乱舞 
 114 どくだみ乳液 
 113  真の老舗
 112 100回の雰囲気 
 111 旅・あおいとき④ 
110  旅・途中③ 
109  旅立ち② 
 108  旅の終わりに①
 107 ストッケ 


平和でなければ237号
わたらせ渓谷鉄道
新聞に群馬県「わたらせ渓谷鉄道」の利用者減少の記事が出ていた、最盛期乗車数40万人が半減しているという。「ゆうれい電車」が復活の証となるのか?

「男の料理教室」の事務局をしていた頃、岩倉に住む先生に京都バスでレシピと生協の報告書を届けていた。車中「バスの日」の広告を見る。全国夜行バス招待の企画。「宇都宮」が目に付き、どうせ当たらないと申し込む。「なんと」見事に当選、2人分の往復乗車証が送付されてきた。2004年7月だった。

9月の後半「宇都宮」ミッションを開始。午前0時頃、京都駅八条口から座席は9割が埋まっていた。我々も指定の所に座る。名神に入ると車内灯が消え、窓のカーテンも下り、隣の客はすでに眠りについている。前方の乗客が咳き込むのが一晩続いた。

翌朝7時頃にJR宇都宮駅に着く。いつものパターン無計画の旅。今日の予定は何も考えていなかった、駅前の喫茶でモーニングを頼み朝食を摂る。思い立ち、東北本線小山で下車、両毛線で桐生に、「わたらせ渓谷鉄道」だ。足尾銅山を見るのもいいと思った、阪急電車風のシックな葡萄色、2両編成で車内はがら空き、それはそうだ平日だった。

 始発駅からは少し街中を走り渡良瀬川の橋梁を渡る、2~3個の駅を過ぎると渓谷沿いを進んだ。保津峡に似た風景が沿線に続く、日当の良い場所の木々の紅葉が始まっている。シーズンは11月だ。

左の窓からは渓谷が、右の窓に日光連山の山が望める、もう、子供の気分だ、運転席横のシートはスピード感で前の景色が次々に目に飛び込む。終点の間藤駅は1時間30分の旅だった。構内に足尾銅山の歴史が飾られていた。江戸時代の「寛永通宝」の銅もここで鋳造されたそうだ、一方、銅の精錬は流域に甚大な鉱毒被害をもたらした。

帰りの列車を見ていると地元のおばさんが「今晩の宿は在りますか」。無計画の旅にこんな人は好都合、「私が探してあげます」直ぐに宿に予約をしてくれた。しばらくすると小さなバスが来て国民宿舎「かじか荘」に到着。

 早速、温泉に入ると何となく熱っぽいので検温する。39度だった。美味そうな夕食もそこそこに就寝。連れ合いが一晩、頭を冷やしてくれた。翌朝は何とか朝食を食べる。桐生に戻り、上野までは特急、新幹線で京都まで。無計画の旅にはアクシデントはつきもの、往路の「あの咳き込んでいた人やなあ」? 復路の乗車券が今でも残っている。 
 平和でなければ236号
持続的可能な社会できる?
  数年前からテレビの天気予報がへんやなあと感じた? 初めは「お天気おじさん」等の愛称化から始まり、その内、別の男性が出てきて、自作の模型で天気予報の解説をやりだす。NHKでは中高年のイケメン予報者に無理な「シャレ」を言わせたり? 今やゲストに三択のクイズ形式、朝の番組では各局の天気予報のショー化のオンパレード。能登半島地震以後は自粛している。

 世界の気候変動は北極、南極をはじめとして世界の高山の氷河が大幅な後退したり、超大型台風の発生、いたるところで起こる猛暑、竜巻、冬には大雪。日本では季節感がなくなる。ロシアでツンドラが溶け出し、思わぬところからマンモスの化石が出てくる。モスクワをはじめとして、ヨーロッパ各国都市では夏には高温での死者が多数にのぼる。日本も熱中症の死亡者数が年々増し、南太平洋の海面上昇による国家の消滅危機、砂漠化によるアフリカの干ばつ被害等で食料危機が毎年起こっている。

問題はその原因を追究「どうすれば解決する?」を報道するのがマスコミやジャーナリズムの使命で、勿論政治はその先頭に立つべき仕事。天気予報はその最前線にいるのであるが、今の体たらくである。 温暖化現象の原因は言うまでもなく、CO2・二酸化炭素の排出に他ならない。

 排出の大本は中国・米国の超2大強国である。にも拘わらず2ヶ国は世界との同調協力、批准すら拒否している。マスコミもこれを免罪している、その上、この声を封じるかの報道に終始している。もはや犯罪であるのではと考える。

さらに、災害が起これば迅速に避難と自助が優先になってきている。あらゆることに公助が後回しの印象を受け、その上共助等言葉だけが独り歩きしている。率先して気候変動の原因追及の先頭に立つべきNHKが報道責務を放棄している。公共放送としての在り方を問われる。

 瓦礫と化した集落、津波が襲った漁港、道路はいたるところで寸断。壊滅状態の「珠洲市のいま」。ここ20数年前、「珠洲原発」の建設計画があった。多くの住民の反対で凍結されるも、過疎の進む町で「もしも原発があれば」はくすぶり続けた。「たらればの話」はせんないというけれど。「もしも元日、それが稼働していたら」と考える意味は、今ある。これこそ、報道すべき案件である。それとも原発は禁句!

 こんなことで「持続的可能な開発目標」(SDGs)が実現できるのか? ただの標語だけの事なら、政策なき自民党と学ぼうとしない金権政治家は永久に消えて貰おう。
平和でなければ235号
私の藤沢周平
 81歳になっても読書だけは続いている。最近は本を持ったまま寝ていることも多い。好きな作家は藤沢周平や池波正太郎の大衆小説である。特に周平の「三屋清左衛門残日録」「隠し剣シリーズ」「橋ものがたり」。何回も読むことで新しい発見がある。SNSの文字でなく、本の活字が好きなのです。

 どうして昔からこの作家さんの小説が好まれるのかを考えてみた。思いつくままあげるとこんな事が頭に浮かぶ。

* 文体が美しく、端正でメリハリのきいた文章を読むと楽しい。時間をわすれ、穏やかさと英知に満ちている。起承転結・読後の余韻が素晴らしく、もう1ページ、更にもう1冊読みたいと思う。そして書けるものならこんな物語を!

* 登場人物は①職人情物 ②市井人情物 ③武士の矜持と御家騒動物 ④下級武士の恋を描いた青春物 ⑤実在人物の史伝物に分かれているように思う。でもそこに一貫した人間的弱点を持ち、運命に弄ばれる人間であることが共感できる小説にしている。

「零落」(三屋清左衛門残日録)
 30年ぶりに出会う元同僚の金井奥之介と海釣りに出掛ける。清左衛門は前藩主の用人を務め270石の成功者。奥之介は25石に落ちぶれていた。夕暮れになり、釣り場で突然、清左衛門をつき落とそうと考え、逆に自分が落ち助けられる。「許してくれとは言わぬ。礼も言いたくない、このままわしを見捨てて帰ってくれ、もう二度と貴公には会わぬ」と、清左衛門は幼い頃からの付き合いが終ったと感じた。

 「思い違い」(橋ものがたり)
 指物師の原作と言う若者は、朝夕その娘とすれ違う、彼は(…川向うに家があって、
両国広小路界隈か神田の辺に、通い勤めしている娘だろう) と見当をつけています。
 作者は、「朝になると人々は勤め先に向かい、夕方には帰る」と言う常識を逆手に取り、「あっと言わせます。そして結果が又泣けるのです、読み終えてしばらくは人を信じてみようという気持ちになります」藤沢小説の極みです。

 昨夏の猛暑は、7月、9月にそれぞれ2週間入院、でも本が単調な病院生活を助けてくれた。症状を忘れ読みふけるうちにその日も暮れてゆく、これこそ読書と言うものでしょう、この喜びの為に、書物を処分しないと言う鉄則を守るのです。        今夜も又本を持って眠るのでしょうか? 周平、正太郎と共に!
 
 平和でなければ234号
LGBTQ反対は自民だけ?
 W杯女子サッカーの一次リーグ「日本対スペイン」を見ていた。日本ではスポンサーがなかなか決まらず、最後にNHKが引き受けたようだ。なでしこJは全勝・無失点で1位通過を果たした。決勝トーナメントでは「にわか」のなでしこJを見る人が増えるでしょう。それにしても、男子に続き強くなりましたね。 

 ところで今W杯女子サッカーではトランス・ジェンダー(性同一性者)と言われる選手が87人も参加している。2019年は40人だった。ブラジルのエース・マルタ選手、優勝候補のアメリカ・ミーガンラピリー選手、その他カナダ、日本チームにも加わっている。 女子サッカーでは当たり前の世界になっているそうです。
 でも、前カタール大会ではL(女性同性愛者)違法の国内法律があり、前々ロシア大会ではL発信問題で参加できなかった。

 かって、女子テニスのマルチナ・ナブラチロワ選手は数々の優勝記録を持ち、1980年代にレスビアンを公表して世界を驚かせた。人気は衰えるどころか差別と自己否定に苦しむ若者たちの先頭に立ち講演を行う社会運動にも貢献した。

 日本では、美輪明宏・IKKOさん達はすごい才能の持ち主で、世間からの差別や辱めを不断の努力ではねのけ、今の地位を築き上げた。この世界の先駆者と言っても過言でない、日常生活に溶け込んでいる。多様化の表れだろう。

 日本のLGBTQ法案は自民党の反対で推進法となる。安倍・岸田の「亡国政権」の支持母体である、統一教会・神道政治連盟・創価学会の教義に反し、献金を助け、弱者切り捨ての法案となる。その上、東京オリ・パラ前に批准すべきものであった。都合の悪い案件は後回し、政権の姿勢を物語っている。でも、私の心の中にも潜んでいる。馴染まない、不潔、気持ちが悪い等。先日、最高裁判決、違憲であると!

ここでLGBTQをもう一度検証してみた! L(レスビアン・女性の同性愛者)、G(ゲイ・男性の同性愛者)、B(バィセクシアル・両性愛者)、T(トランスジェンダー・男でも女でもない人)、Q(クエスチョニング・決めかねている人)である。全ての人々の生存権を考えると、当然、尊重するべきである。

私自身も、美輪明宏さん達の様に慣れていくしか方法がない。もし、身内にLGBTQの人が居たらと思うと、「多様性の調和」は結局、「みんなちがって、みんないい」。憲法第13条(個人の尊重)が基本になっているのだろう。
平和でなければ233号 
森保一監督
 3年前、W杯森保一監督は東京五輪監督も兼任した「広島・長崎でサッカーが開催され、それは競技を通して平和への想いを発信する決定がされたと考える」と語った。監督の両親は被爆者、彼自身も高校まで長崎で生活する二世。その後,社会人となり、広島で30年間過ごす。この間、指導者として「J1広島」を3回も優勝に導く。サッカーの申し子と言っても過言ではない。

 サンフレッチェの監督になり、原爆が投下された8月、選手達に「多くの犠牲とご尽力があって、今の豊かな生活がある。犠牲になられた方々のご冥福をお祈りする。ご遺族・後遺症に苦しむ方に励ましになるよう試合に臨む」。
更に「今響かなくても未来に伝わればいい」。五輪代表になって、五輪憲章をずっと読んでいる。「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てること」。

「東京五輪・パラリンピック」のビジョンは「多様性の調和」と「未来への継承」を謳う。具体的には「復興五輪」、「差別との決別」だった。
 実状は程遠い。被災者の激励・差別との決別ならどうして「パラリンピック」を先に実施しないのかと思う。五輪関係者には身障者・高齢者は添え物か? 経済の伸長とメダルの数だけが成果なのだろう。憲章の教えと相反する。

 金銭疑惑のIOC。巨額建設資金は税金、被災地に廻すべきものだ。真夏の開催に疑問を持たない政府、都知事、JOC会長・委員。広告業界・協賛企業の目に余る談合の数々、復興税を防衛予算に廻す等、増税岸田の自民党。

W杯ワールドカップに理念や憲章はない、あるのは優勝すれば58億円以上、ベスト16位は18億円、ベスト8位は23億円、お金の取り合い。賞金はスポンサー、試合の放映権・関連商品利益等があてられる。高騰する中継料! 米・欧州中心の放映が批判の的。FIFAの横暴が噴出している。
 
最後に監督は「平和だからこそスポーツが出来る。だから発信する」と語気を強めた。五輪の事、W杯の事、ウクライナの事等まだまだ言いたいことがありそうだ。でも保一さん(監督仲間の愛称)次回もお願いしますよ。
 平和でなければ232号
光風動春
 40歳前半、以前習っていた書道を再開する。四条大宮のお寺が教室だった。勿論、初心者と言うことで始めた。会社の先輩の紹介だった。たまたま忘年会で隣り合ったのがきっかけだった。

一年が過ぎた頃? 書も次の段階に進んだ。先生の前に正座すると、おもむろに手本が机の上に置かれた。長方形の表紙に「白帝城」と書かれてあった。中国の詩人李白の七言絶句の書集だった。
白帝城
朝辞白帝彩雲間 (あしたにじす、はくてい、さいうんあいだ)
千里江陵一日還 (せんりのこうりょう、いちじつにかえる)
両岸猿声啼不住 (りょうがん、えんせい、ないてやまず)
軽舟已過万重山 (けいしゅう、すでにすぐ、ばんちょうのやま)

 朝早く、朝日に彩られた雲たなびく中、白帝城に別れを告げた。遥か彼方の江陵の地まで、一日で下る。(三峡の辺りの)両岸から悲しげな猿の声がしきりに聞こえ、私の乗った舟足の軽快な小舟は、すでに幾重にも重なる山々の間を通り過ぎてしまった。

 漢文・漢詩、古文は成績を別にして読んだり、詠うことはすきだった。七・五調の文や詞は日本人の感性に合う、起承転結! 音楽で言う「ソナタ形式」?

週一回の稽古日は仕事が終わると、直ぐに帰宅し自転車で通う、本堂横、控えの間で「白帝城」に取り組む。半紙を縦に4分割し、朝辞白帝彩雲間・・・を来る日も来る日も稽古に励んだ。一行に7文字を書くことはなかなか・・・。

 教室一年の成果を祝う「発表会」の日が決まる。私の作品は当然「白帝城」と思っていた。発表会の一ヶ月前だったと思う。先生から呼ばれて席に着くと新たな「お手本」が机の上に置かれた。「光風動春」だった。(こうふう、はるをうごかす)

 先生は「きょとん」としている私を見て、この書は小林一茶の作で大きな紙に縦書きに留めることで発表会でも映えると言う。

 さすが先生、わずか二年の拙い(つたない)稽古では「白帝城」は無理であるとすぐに見透かしていたのだと思う。でも、「光風動春」の軸は今も玄関横の間を飾っている。 
 平和でなければ231号
流木は宝
  その木の根っ子を見つけたのは、友人宅の帰りだった。太子道の信号に引っかかった。左側の側溝にその木片が置いてあった?青に替わる寸前に、その木片をバイクの前に載せた。1直線に自宅まで戻った。

  この木片をじっくり見た。泥で汚れていた。虫も住んでいそうなので、水道端で、たわしで水洗いをした。特に4ヶ所のくぼみは丁寧に洗った。お陽さんの下で乾かした。3日間はそのままにしていた。連れ合いから「はよ、どこかに持っていって」と言われる始末だった。

  完全に乾燥したようなので、カッターでぼろぼろの木片をそいでいった。これで周りを汚すこともない。玄関の棚の上に置いた。外から帰るとその根っ子が迎えてくれる。あれから3年がたった。

  その木片は20センチ四方、高さは70センチ位、先の方は尖っている。その中途の窪みに「石斛」を植える。麻の紐で括り付けた。今や庭の景色となっている。板壁にも天神さん、弘法さんで購入した木片にこれも「石斛」を植え付けている。様々な形のものが5つほどぶら下がる。

  昨年は友人がくれた「千成ひょうたん」の石斛と自分が制作した木片に淡い白とピンクの花が咲き梅雨前「小さな幸せ」をもたらした。
当然、ディーサービスの利用者さんにも見て頂いた。

  細工しなければならない大きな瓦、丸太片、漁師の網の一部等全て外から持ち帰ったものだ。何に使うかは大体考えている。

  お寺と周山の農家で貰った鬼瓦が2個ある。勿論、石斛の植木鉢にする予定。それから上京の竹屋さんに頂いた細竹5本これは茄子や胡瓜の棚の材料に出来るかもしれない。 菓子箱は貴重な材料である。後から残して置くのだったはよくある事。廊下の棚は宝物の山? 何ひとつ捨てるものはない。 
平和でなければ230号
「寅とマドンナたち」
 再びBSで山田洋次監督の「寅さん」が放映されだした。かって、松竹映画の盆・暮れの稼ぎ頭だった、寅さんとマドンナについて再考してみる。

マドンナは36人の女優が演じている。最後の50作目は別にして、出演回数から言えば浅丘ルリ子5回、後藤久美子5回。多いと思われる竹下景子3回。吉永小百合、栗原小巻、大原麗子、松坂慶子が2回で並んでいる。面白いことにゲスト女優として夏木マリが4回と群を抜いている。

リリーの浅丘ルリ子は旅回りの歌い手。初演の「男はつらいよ寅次郎忘れな草」、鈍行列車で車外の景色を見ながら涙を流す、一人旅の寂寥感。寅はそっとハンカチを手渡す、何んでもない仕草が観客の心を捉える。そんなリリーに寅を重ね、おいちゃん、おばちゃん、さくら、博さん、満男を始めとしてタコ社長、その娘、御前様等誰にも好かれた。
なんと言っても「男はつらいよハイビスカスの花」、リリーの病床を見舞う寅次郎。沖縄の紺碧の海、真っ白な砂浜の村で繰り広げる同棲の日々、柴又での愛情の数々? 「いいか、寅、どこの世界にお前にプロポーズするような女がいるんだ、そこのとこをよく考えろ」「私たち、夢を見ていたのよ、きっと、ほらあんまり暑いからさ」「しょせん、おれもリリーも旅人さ」でいつものように恋は終わりを告げる。マドンナの女王だった。

 もう一人、後藤久美子の初作品「男はつらいよぼくの伯父さん」を見た時、泉ちゃんの美貌にも驚いたが、この作品を契機に「寅さん」の形が完全に変わると直感的に思った。これまでの寅さんとマドンナでは映画の継続が困難になる。 案の定、これ以後ゴクミが満男の恋人として回を重ねた。
 国民的美少女ゴクミの演技、台詞廻し等、大根役者にも負けない不器用さだった。それにもましてあまり有る若さ、美しさ。監督の女優眼の確かさ! 
 夏木マリは泉ちゃんの母親役だった。役柄は水商売の訳ありママ。両親の離婚を契機に泉ちゃんは家出をする、それを知った満男君が九州佐賀に彼女を追う。まるで寅さんだった。正に「寅・マドンナ」の世代交代だ。渥美「寅」は確実に終焉に向かっていた。

 それにつけても場末のキャバレーで歌うリリーの高音の澄んだ歌声は見る人々の郷愁を増幅させる。播州竜野芸者ぼたんの大地喜和子が詐欺にあい、寅が解決に乗り出す、知り合った日本画家の絡みも監督好み。思い起こせば沢山ある。お寺の娘役の朋子竹下景子に信頼される、果たして恋の行方はいかがなりまましたかな? 等、等、・・・。

50作目は蛇足、国民的長編映画はこうして3年前に幕を下ろした。再びこんな監督、作品、俳優が出てくるかが日本映画の将来にかかっていると言っても過言でない。
  平和でなければ229号
「乗り鉄」でなく「飲み鉄」
鉄道フアンは「鉄チャン」。「撮り鉄」が各地で問題を興している。鉄チャンも色々あるそうです。運転・車両研究、部品のコレクション、写真、音、模型等限りがない、名称も「音鉄」、「録り鉄」、有名な「撮り鉄」、「乗り鉄」様々だ。

「スジ鉄」にいたっては「時刻表」の蒐集・研究だそうだ。最新版は「飲み鉄」、列車に乗り景色、車両をあてに酒を飲み各地を巡ると言う趣向。
その「飲み鉄」の先駆者が六角精児だ。「飲み鉄本線日本旅」「飲み鉄只見線」等色々ある。テーマソング「ディーゼル」を先ず聴いて下さい。

「走る列車のリズムに合わせ♪缶ビールが揺れている♪窓の景色もそこそこに、あー少し酔ってしまったなあ♪海岸線は故郷へ向かう道♪負けたんじゃない、逃げるんじゃないさ♪ ほんの少し弱くなっただけ♬♪」

「時間調整の小さな駅で♪ディ―ゼルの音を聞きながら♪ホームに降りて、背伸びをすれば♪あー少し気が晴れる♪海岸線は故郷へ向かう道♪負けたんじゃない、逃げるんじゃないさ♪ ほんの少し弱くなっただけ♬♪」

「故郷の名を告げる車内放送♪体が急に重くなる♪このまま降りずに通り過ぎようか♪あー少し唇かみしめる♪海岸線は故郷へ向かう道♪負けたんじゃない、逃げるんじゃないさ♪ ほんの少し弱くなっただけ♬♪」

六角精児のダミ声がBoroでも河島英五、さだまさしでもないがどこか通ずる、カントリーウエスタンのリズム 「酒くらいなんや」とギターの伴奏、そしてこの詞に思わず「ニヤッ」とする。反骨精神と「ぬくもり」が人の心に滲み入る、ええやん!

片や国政を見れば、自民は2~3世の世襲議員ばかり、政治の私物化。議論なんて微塵もない、閣議決定で予算を巨大企業とぶんどる。毎年下がる年金、毎年上がる社保料、マイナンと健保証の廃止、戦争準備の防衛費の増大、何ひとつ国民を明るくする施策の無さに「苦笑いしながら」この歌を創る? 六角精児バンド!

NHKにも「飲み鉄」、日本縦断「こころ旅」のような視聴者の心に寄りそう番組がある。でも、ほんのわずかしか残ってないのでは? 御存じ火野正平の自転車の旅、朝から下り坂最高、直に昼食、機智にとんだシャレ・冗談。残された人生を謳歌し、楽しむ。役所仕事「いいじゃないですか!」 
 平和でなければ228号
2冊の単行本
  久しぶりにいつもの本屋で新刊書を購入した。私は「終止符のない人生」、ショパンコンクールで51年ぶりに2位となるピアニスト反田恭平の自叙伝。連れ合いは日曜版紹介の「世界は五反田からはじまった」、大仏次郎賞を受賞したノンフクション作家星野博美の作品。

 作者の出身地東京五反田で祖父・父親が町工場を営んでいた。「そこから見える日本があるはず」の信念のもとに小説が書かれている。何でも材料にするがこんな方法もあったのだ。
 五反田の戸越銀座付近は戦前、軍需工場の町、小林多喜二の「党生活者」の舞台になった工場、宮本百合子の「乳房」の無産託児所、多喜二がオルグ活動をした無産診療所があった、そして一面の焼け野原になった。「町工場の労働者が偉いという社会は素晴らしいじゃないか」と。
 空襲がまだ続いても、すぐさま復興に向けて動く。お前もそうやって行き延びろよ、
祖父から活を入れられた気がした。父親は自由を代償に権威や権力に近づくのは避けたいと思う。親族の歴史を掘り下げ見えてきたものは・・・!

 反田さんの魅力は普通の人、父親は東京生まれの転勤族。名古屋にいた3歳の時、幼稚園で「この子はとんでもなく耳が良すぎます。ピアノでもヴァイオリンでも必ず何か音楽を続けてくださいね。きっと伸びますから」。
 でも、趣味がピアノ、本業サッカーで11歳まで過ごす。骨折を契機に桐朋学園に入学、「題名のない音楽会」で指揮者デビュー、指揮台に立った瞬間、「この世界で生きて行こう」と腹が決まる。

 あらゆるピアノコンクールで1位になり親を説得する。そしてロシア、アメリカ、イギリス、ポーランドとひたすらショパンコンクールに向けての準備が始まる。

 「音楽と初めて出会ってから20年以上が経過した今、人生で最も満足いく演奏が出来ている」1分1秒の瞬間瞬間に、永遠が凝縮されているかのような濃密な時間だった。「尊敬するショパンが残した譜面に没入し、ショパンと同じ時間を生き、ショパンと溶け合っている」恍惚と陶酔の輝きに身を浸し、「僕が追い求めていたショパンが今ステージに姿を現し、饒舌が過ぎるほどにショパンと対話していたのかもしれない」と人生を変えるコンクールを飾った。

 読み終わると文章にもあふれる感性、私の目覚めの音楽は「幻想即興曲」に始まり、「革命」「英雄」「別れの曲」等ショパンの小品が時計代わりになった。
 平和でなければ227号
たなか屋と万灯呂山
  誰でも美味しいもの食べると笑顔になる。以前から木津の「たなか家の饂飩」は気になっていた! 今回、例会になり、Y氏・A氏両氏からお誘いを受け、「饂飩だけを食べに行こう」と参加させて頂きました。例会参加は何年ぶりだろう? やっぱり、自分の意思で入った会だから「止めたらあかん」「楽しみ」

 高速道路を一路玉水方面に向う、それにつけても淀川流域では美しい場所であるこの周辺を、縦横無尽の高速道路が古戦場や背割り堤、石清水の景観を台無しにしているのではと何時も思う。小さな島国にこれほど高速道路が必要なのか? 北陸新幹線の事もこの類いではと考える。「ちょっと硬いかなあ!」

 それでも車は先に進んでいく、展望台へ山野辺の道を行く、山頂は花曇り、でも晴天なり、西には遠くポンポン山、小塩山、手前に石清水山、真下に大河木津の流れ、南にアンテナ群の生駒山、北西には愛宕山、真北に京都タワー、北東方面に比叡山塊が霞の中に望まれる。

 暫くすると例会参加の仲間たちが到着、山組と車組との合同写真を撮り、一路山麓の本日のメイン「たなか家」の饂飩昼食に向かう。

 メニゥーを見て荒木さん達は名物、柚子胡椒味・西京味噌仕立てとラー油入りラーメンをセレクトする。Yさんと私たちは、西京味噌仕立ての温かい饂飩を頼む。

 急いでの注文、整理番号は15番。今呼はったのが10番の人、我々も雑談をしながら「腹が減ってもひもじゅうない」、腹の皮が背中に附く頃だった。

 熱々が来るのかと思ったが結構ぬるい、直ぐに出汁を味見、辛いが第一印象だった。連れ合いが「よく混ぜなあかんよ!」注意しながら混ぜる「なんと・なんと」柚子胡椒と西京味噌が交わり、喜ぶべきミスマッチ味、固いと思うほどの饂飩が仄かな柚子味噌の香りと共に喉越しを通過する。この素朴さが「たなか家さん」の味だったのだ。

 そうでした、大事な事をわすれていました。桂坂の十兵衛の「チャンドン」を食べた後、最寄りのバス停で、「熊出没注意」の掲示版が目に止まる。(令和4年10月25日、日文研、道路上。)「そうか」熊の親子も「チャンドン」を食べにきたのか? そう言えば、「たなか家」の白味噌仕立ての饂飩にも万灯呂山から「ウリ坊」連れの猪が訪れたに違いない。きれきれ、しこしこを味わう為に!
平和でなければ226号 
Dr中村哲 35年の記録
1月末、「荒野に希望の灯をともす」。アフガ二スタンで医療や人道支援活動を続けてきた医師・中村哲が凶弾に倒れて22年12月4日で3年が経ち、35年の活動の軌跡、没後の現地の映像も加え、苦しむ人々を決して裏切らない氏の信念と深い絆を淡々と伝える記録映画でした。

  中村医師は1984年パキスタン・ペシャワールの病院に赴任、ハンセン氏病の担当医になる。その後、アフガ二スタンの無医村でも治療活動を続ける、大干ばつに見舞われ、人々の大量の飢饉を目の当たりにし、2002年「緑の大土地計画」を発表。

医師でありながら土木工学を一から学び白衣を脱いで、現地の人々の先頭に立ち、用水路建設に着手。多くの試練を超えて7年がかりで完成した水路は、大地を潤し、緑をよみがえらせ65万人の命を救うに至ります。

2001年10月、国会の参考人招致に応じ、朴訥に「平和が日本の国是」と証言。
又、インドのカースト制度が残るパキスタンでは掃除をする人を見下している「彼らが掃除をしてくれないと手術は出来ない」「腸チフスの人が排便した後にハエが来て、次の人に感染させる、だからトイレを掃除する人の役割はすごいことなんだ」と言うふうに、ひとりひとりの価値を認め、自分でも床を拭いたりする。それは一貫した中村医師の行動だった。

人間は、都市や村を破壊し、無数の人々を不幸のどん底に落とすことが出来る一方で、砂漠に水を引き、緑を蘇らせ、無数の人々に幸せをもたらすことも出来る。すべては私たちの選択にかかっている。こんがらがった社会や世界に挑まなければなりません。途方に暮れるような困難があっても中村医師の歩んだ道のりが、きっと背中を押すでしょう。

久しぶりの本格的なドキュメンタリー映画で「あっと」言う間の1時間30分でした。1946年生まれ73歳で凶弾に倒れる、行動するインテリ。医学、土木、政治迄何でもこなし、ただただ、現地の人に寄り添い出来ることから始める。うらやましい程清貧で真似のできない生き方、どうしてノーベル平和賞候補に挙がらなかったのでしょう? 

同しょうもない悔しさ。 鑑賞しがいのある映像、「ウクライナの侵攻」が如何に理不尽な戦争であることも良くわかる。本当の教育とはこういう行動・活動をする人を育てることかもしれない? 本当に考えさせる記録でした。 
平和でなければ225号
ピュアな人々
  昨年末、天王町の「泉屋博古館」の特別展「木島櫻谷・山水夢中」の招待券を頂く。
折角、鑑賞するのだから記念講演「木島櫻谷の生涯と山水画」実方葉子氏(泉屋博古館学芸部長)もと欲張りをする。

  木島櫻谷さんは「平和でなければ」第151号で取り上げていたので、記念講演は人一倍聞き耳を立てた。実方氏の内容は微に入り細にいる、写生を最重視、胸中の山水を求め、超越する時空に心を遊ばせる「画三昧」。その境地は「養拙」(稚拙さを養う)。実方流に言えばピュアな心で人生を送り、自然を見・描く事でした。

  特別展・記念講演に大満足で帰途に就く。その日は医者の指示で車椅子でした。連れ合いが車椅子を押してくれた。丸太町通りに出るとあの下り坂、南側の歩道に向かう、上着のファスナーが椅子の間に挟まりもたもたしていた。

  歩道に乗り上げる為に何回も前後に動かしていた。東から来た軽トラックが急に止まる。運転手は若い男性だった。てっきり「怒鳴られる」と思いきや、無言で車椅子を操作して歩道に押し上げてくれる。「あっと言う間」お礼も言えないまま、さっと行ってしまった。

  私たちは驚きの余り無言で、タクシーを探しながら白川通に向かう。午後4時前、車は他府県ナンバーが大半でした。錦秋の京都を楽しんだ観光客?の車だろう。営業車はなかなか見当たらない。

  通りは数珠繋ぎ状態。横断歩道で西行きのタクシーを何台も何台も見送る。連れ合いが市バスにしようと言い出す。ふと横に親子が自転車を止めて、我々を応援しようと立っている。やっとタクシーが来る、母親がさっと横に来て「お手伝いしましょう」と声をかけてくれた。子供に目をやると優しい笑顔だった。目で「有難う」と言うとうれしそうにうなずいた。

  車椅子は初体験の世界。でも、たった15分間に軽トラのお兄さん、横断歩道での親子、更に美術館での扱い、驚きと感謝・感動が心を弾ませる。我々の知らない世界で高齢化に向かう社会を推進させる「ピュアな心で世の中を見る人々」が増えていることだった。

  こんな幸せな思いに浸ることが出来た木島櫻谷展・講演会に感謝する。そして街に出よう、できることから始めてみようと。あの青年・親子の様に! 
平和でなければ224号 
洛中と麺①
 「洛中と麺」①
私も麺類は好物である。それも蕎麦がすきだった。きつね丼と素蕎麦が会社勤めの昼食。勤務先が四条東洞院にあり、錦通りの「権兵衛」、東洞院の「笑福亭」がホームグランドでした。週末は赤ちょうちんで1杯やり、あと1軒、帰りに大和大路の四条の蕎麦屋で仕上げ、定年まで続いた。「そんな生活はあかんわなぁ・・・・」

 ある昼、大丸地下街の「大江戸」で丼と素蕎麦を注文する。蕎麦に土生姜も添えて貰った。一口食べると何か違和感があり、食べたそばを直ぐに吐き出した。蕎麦アレルギーの始まりだった。

 退職後は蕎麦から「うどん」に宗旨替え。そして、うまい饂飩を探す旅を開始。川東に行けば祇園「権兵衛」、休日、植物園に向かえば洛北「権兵衛」、地元は府庁前「権兵衛」からスタートする。

 妹に教えられた桂坂の「十兵衛」の和風「チャンドン」(あんかけうどん)は未経験の味だった。店内で売る「アップルパイ」は絶品でお持ち帰り。

 桂駅東口の「つる麺」さん、安価で旨い蕎麦だった。でも、「豚生姜焼き」が常連さんの
定食。うどん屋で豚の生姜焼きこのアンバランスの2店に良く通った。

 洛中は蕎麦屋も老舗が多い、姉小路の田毎庵「河道屋」、車屋町の本家尾張屋本店、麩屋町の権太呂本店(ここは鍋料理だけ)岡崎動物園店。老舗は敷居と値段が高い、その上量が少ない。それでも、尾張屋は結構いけました。天せいろ定食2450円。毎日はいけませんがたまにはいいでしょうか!

市内の個人経営の「うどん屋」さんが「なか卯」をはじめとしたチェーン店の進出で店やメニューに変化をきたしている。例えば私の好きな「けんちんうどん」や「たぬき」等「餡」をかける献立が少なくなってきて、安い・早いだけが取りえとなる。

 京大病院の帰りに必ず寄る河原町今出川の「田舎亭」が昨年末で立ち退きになる無念。出町商店街にはそば処「司津屋」。あの昆布だしは格別な味、二代目は案内にロボットを導入、観光客が増えただけ。その上、丼や「のっぺ」が消え、自然に足が遠のいた。

 麺好き男性陣に贈る?「そば処みやこ」(西洞院蛸薬師)、店は小さいが仕事は丁寧、吟味された食材を使用、味は申し分なし、夫婦で経営。そんなら普通の店やん、違いますねん、違いますねん、高島礼子にウリ二つの女将さんと温かい饂飩。幸せでっせ! 
 平和でなければ223号
小説の書き出し
  「小説の書き出し」
   「今、そこにある幸せ」(日本語版)(1993 記)
こんな風景を描いた絵が脳裏に甦った。翁と媼を描いたもの。高齢になり縁側で何となく庭を見ている、媼はそれを見てお茶を入れている。互いの両親もとっくになくなり、「良い天気だね」。「お昼は何にしましょうかねえ」「あったかい饂飩が食べたいね」「ではそれにしましょうか」

 何が起こるわけでもない平凡な日々。昨日と同じ今日がある。それまでにひと波乱も、ふた波乱もあっただろう、それらは全て忘却の彼方に押しやられている。人生は短い。「あっという間」、今、そこにある幸せを感じる。

 それ以上何を望むのか? あの腹を空かした貧乏だった日々、あの楽しかった日々、あの悔しかった日々、忘我の隅に押し込められている。何故かいいことばかり思いだされる。そんな気分に創作が始まる様な感覚にしばし陥る。もっと、もっと読書に精を出そう。

「車軸の雨」
 奢る平氏も源氏に敗れ都落ち、西へ西へと落ちていく。時折、冷たい雨が御車にも降り注ぐ、源氏に敗れた悲しみの涙と降りしきる雨とが混ざりあいわからなくなる。
平家物語の一節「車軸の雨」、車軸も濡らす豪雨。何と粋で儚い日本語の妙、皆さんもこんな経験がありますか?

 「石黒さん行きましょうか」と毎週末露地の入り口からの誘いの声があった。何偏も金毘羅で練習に励んだ女、話すうち同じ高校(府立朱雀高校)の後輩だとわかった。Ⅿクラック横のボルトルートは当時5.10cだった。ここは彼女が先に完登、フレンチクルーラー(5.11a/b)は私が。どちらも仲間達との精進の賜物だった。

1992.11月、彼女は女性たちと剣へ、私は花折・飯田先輩たちと白崎海岸に向かう、和歌山は温暖でクライミングには最適だった。でも、初めての岩場、初心者の私には難しいルートだった。帰路、奈良県回りのドライブを楽しんでいた。突然、花折さんの携帯に遭難の報が入る。剣沢を下山中、4人のうち2人が雪崩に埋まるというものだった。何はともあれ山道を五条に向かう。そういえば「白崎海岸に行きたそうやったなあ!」
 
京都に近づくにつれ詳細が判明した、彼女は頭の先から雪に埋もれ、あと一人も圧死だった。2日後、遺体が自宅に帰る。小さなクライマ―の土色の顔に死化粧が施してあった。ただ、ただ、滂沱の涙。いつまでも「石黒さん行きましょうか」が耳底に響いていた。
 No223        Peaceful days “Writing novel“          2023.01

「Happiness that exists now」
A picture depicting such a landscape revived in my mind. A drawing of an grandpapa and mama. As I grow older, Somehow, looking at the garden.
Ya sees it and makes tea. It's good weather. "What shall we have for lunch?"
I want to eat hot udon. 
So let's do that ordinary days where nothing happens Until then, there would have been one or two turbulences, and today is the same as yesterday. All pushed into oblivion. Life is short, in the blink of an eye. I feel the happiness that is there now.
The days when I was hungry and poor, the days when I was happy, the days when I was frustrated. Pushed into a corner of oblivion. Only good things come to mind. I feel like I'm starting to create in such a mood. Let's do our best to read more.
                        「Axle rain」
The Heike clan was defeated and fled the capital, and the cold rain that fell west and west fell on the carriage, and the tears of sorrow mixed with the rain.
One section of the Tale of the Heike, "Rain of the Axle", What a stylish and pale Japanese wonder. Have you ever experienced something like this?

 "Mr. Ishiguro, shall we go?" came a voice from the entrance of the weekend open space.I found out that she was a junior in the same high school as the woman who practiced hard in Konpira.
Ⅿ bolt root next to the crack was 5.10. She climbed first, and French Cruller (5.11a/b) was the result of me and her companions.

1992.11: They are Mt.Turugii.Ⅰwent to the Shirasaki Beach with Mr.hanaori
and Iida seniors, it was my first rocky place, it was difficult for me. On the way back, enjoy a drive around Nara. Suddenly, Hanaori's phone receives a distress report. During the descent, we encountered an avalanche, and two of the four people were buried in the avalanche. Anyway, let's head to Gojo. "I thought you came here."

As we got closer to Kyoto, more details became clear. She was buried head first in the snow, and one behind her was crushed to death.Two days later, her body returns to her home.The earthy face of the little climber is deadly made up. Just tears pouring down. Mr. Ishiguro, let's go was echoing in my ears.
 平和でなければ222号
私のお守り
  高校1年は1704番(7組4番)、2年2402番、3年3804番だった。しょうむないことを覚えてるのは、豆英語単語帳の裏に書いていたからだ。今、考えてみると府立高校によく入れたと思う。入試も半分の出来だった。受験勉強なんて少しも頭にもなかった。それどころではなかった。

小4の5月に公務員の父が亡くなり、長男は直ぐに夜間高校に転籍、父の裁判所に入所する。次男も祖父の下で大工の仕事に就く。長女はすでに室町の会社に勤務。妹は小学生。私も中学1年から酒屋でバイトを始めた。中学卒業後、地元企業の試験を受ける。1次、2次と進む、3次は面接と身体検査。Ⅹ線検査ではねられ失敗、酒蔵の主人が高校の学費を負担してくれることになる。想像も出来ないことでした。

5月の連休明け頃から授業に出るのが怖くなる。奨学金プレッシャーと同級生に対する劣等感、今で言う不登校。家に籠る日が続く一方で、解決にならない。行動しなければと、夏休みの始まる少し前に久しぶりに学校に行く。同級生の奇異の目があった?

 直ぐに、学期末テストが始まった。開き直っているから、解からないものはわからない。でも、好きな科目は評価を別にしてそこそこ書けた?

 休みになる前に成績通知表が手渡された。国語(甲・乙)評定不能、漢文2、社会2、化学1、芸術3、体育評定不能、英語1、数学(代数)は白紙(評定不能)だった。担任所見は長欠を取戻す為頑張りなさいだった。私的に見れば当然の結果。

 バイト代で「基本英語単語帳」を購入、培風館のベストセラー、価格は70円。基本単語を覚える為だった。「1」の汚名を晴らさなくてはならない。もうすぐ60年になる。表紙は傷んでぼろぼろ、ガムテープで補強しながら大切にしている。

 とりあえず、高2の春は泣かないで済んだ。「3」だった。他の科目も似たようなもの、体育は「1」。でも数学は「4」、職員室に呼ばれる。この単語帳で、すこし自信がついたのかもしれない。成績表は母親が全て残しておいてくれた。
 
 豆単語帳で調べた単語は赤鉛筆で印をつけ、記憶のあかしとしていた。1P目「A」はAble(できる)、Above(より上に)、Absent(欠席する)、Accident(でき事)に明瞭な赤線が入っている。 小さな単語帳は私の青春の甘さを見透かしていたのだろう? でも、「何事も真面目にやれば出来る」を教えてくれた。私の大切な御守り、今も手元に置き使用している。
平和でなければ221号
あの頃の私
1994.07穂高岳屏風岩 雲稜ルート

    

1993.05韓国 仁寿峰
     


1993.11.07 雪彦山
      


1994.04姫路小赤壁

      

   1987.06御在所岳前尾根


2001.01タイ・ライレィ・ビ-チ
    

1987.07 剣岳Ⅵ峯 A・Cフェース・源次郎尾根
    

1988.08 剣岳熊の岩・チンネ左稜線
  
 
平和でなければ220号 
1987年の記録
  明峰には1985年に入会それまで職場や同窓生と山行を共にしていた。回数も年間20回前後だった。8629回と入会効果。3年目、87年には48回と倍増する。
下記は87年9月までの個人・例会・合宿等の記録の一部です。

*1月15日堂満ルンゼ(花折・井上・上田・石黒)、1月18日釈迦岳(奥田・鎌田・石黒)、1月25日堂満ルンゼ(花折2・高田2・飯田・佐藤・浜部・井上・上田・石黒)

*2月1日六甲氷瀑(佐藤・上田・浜部・高田・小鹿・鎌田・石黒)、28日中谷αルンゼ(花折・飯田・高田・浜部・松木・上田・森倉・石黒)、2月1215日八ヶ岳(佐藤・上田・浜部・石黒)、2月22日武奈ヶ岳(上田・高田・大田・石黒)

*3月1日金毘羅(佐藤・坪山・上田・高田2・石黒2)、315日金毘羅(花折・高田2・上田・坪山・森倉・横井・太田・石黒)、321~22日木曽駒・宝剣岳(横井・花折・松木・上田・浜部・高田・滝・森倉・坪山・太田・石黒)

*4月26日湖南アルプス(花折2・高田2・浜部・小鹿・鎌田・山田・伊藤・島田・太田・石黒)、*5月1~3日唐松・五竜(滝・太田・井上・森倉・山田・石黒)、5月10日金毘羅(花折2・飯田・松木・高田・上田・坪山・森倉・伊藤・島田・太田・浜部・石黒)、5月30日金毘羅(上田・山田・石黒)、5月31日金毘羅(上田・井上・石黒)

*6月6日金毘羅(浜部・石黒)、6月7日愛宕山(石黒2)、6月1314日御在所・前尾根(佐藤・上田・石黒)、6月21日金毘羅(花折2・中川・石黒)、6月22日金毘羅(上田・石黒2)、6月27日金毘羅(上田・浜部・石黒)、6月28日金毘羅(飯田・上田・松木・太田・石黒)

*7月11日金毘羅(上田・松木・太田・石黒)、7月12日金毘羅(佐藤・浜部・石黒)、7月18日金毘羅(佐藤・浜部・石黒)、7月24日金毘羅(石黒2)、7月25日金毘羅(浜部・石黒)、7月26日金毘羅(中川・浜部・石黒)、7月31~8月3日剣岳八ヶ峯(佐藤・浜部・石黒)、
88日毘沙門谷(石黒2・丹羽2)、8月1718日西穂独標(浜部・石黒)、8月23日金毘羅(佐藤・浜部・石黒)、8月31日金毘羅(佐藤・坪山・高田2・石黒2

*9月6日堡塁岩(森永・坪山・佐藤・松木・高田・上田・太田・石黒)、9月13日千石岩(森永・上田・石黒)、9月15日金毘羅(上田・松木・鈴木・石黒)、9月19日千石岩(上田・芝田・石黒)、9月20日品谷山(奥田・山田・伊藤・坂田・太田・石黒)、9月27日金毘羅(高田・井上・石黒)

 この頃、山行はリーダー部とハイキング部に分かれていた。岩例会は驚くほどの組に分かれた。本チャンに向けてのトレーニングは熱心だった。山は非日常の遊び。誰もが行きたい山を楽しんだ、事故を起こさないため、自主トレも励んだ。継続は力、何よりも全員若かった。3人寄れば山岳会の時代、山へ行くことが活動だったのでしょう。

平和でなければ219号 
乗務員の「おもてなし」
  7月末、予約時間に遅れそうな為、タクシーに乗車する。行き先を言うと乗務員が「お客さん、冷房の具合はよろしいですか?」「少し室温を上げてください」「よろしかったらのど飴をいりませんか?」「それではひとつ頂きます」

 よく見ると運転席と助手席の間に宣伝誌で折った小さな紙箱があった。その中に数個の「飴だま」の袋がある。「1個貰います」と箱から取り出し口に入れる。すかさず、「殻は横の紙の入れ物に入れてください」確かに紙箱の横に小さな袋がある。

 袋に殻を入れると乗務員は「外国人にのど飴を勧めると紙箱を欲しいという人が大勢いる」「日本人が広告チラシで器用に紙箱を作ることに驚くようです」更に「エコにもなると興味を示す」と饒舌だ。

 話を聞きながらあの歌が直ぐ頭に浮かぶ、「千代紙が好き♪ 折鶴が好き♪ 故郷の空に飛ばすという♬ 願い一筋智恵子♪ 智恵子の夢が♪ あーあ、安達太良山に♪ 今日も羽ばたく♪」(智恵子抄の1節)
 
 以前、イギリスにホームスティに出かけた友人がお土産に悩んだ。色々考えた末、色紙を選んだ。貰った人が気を使わなくてもよい事、かさ張らないし安価な事だった。ところが現地では大変な人気で、日本人のセンス、繊細さが大好評だった。

 滞在先の歓迎会で友人は参加者に1冊づつ色紙を手渡した。その1枚で折鶴を「あっと」言う間、そして披露する。更にもう1羽折り、友人たちに贈る時の千羽鶴のしきたりを話した。片言の英語で! 終わると大きな拍手が巻き起こった。

 それから「奴さん」それこそ「紙箱」「船」「飛行機」と次々と折る。参加者は日本人の器用さにただ目を見張るばかりだった。
 
そんなことを思い出していた。車は目的地に着く、乗務員の「おもてなし」を感じながら車から降りた。最後に厚かましくもう1個「飴さん」をポケットに入れる。

 診察を済まし帰宅後、何枚か残っている色紙で「鶴」を折ってみる。中途までは覚えているのでスムーズームにいく、あとになるほど、特に首と尾の所になるとわからなくなる。もう海外に行く機会はないだろうが、伝統の手順をしっかりと頭に刻み込んだ。 
平和でなければ218号
登山バッチ
    昨年末、棚の奥に小さな箱を見つける。取り出すとかなりの重さがある。蓋を開けると「登山記念バッチ」、数えてみると50数個出てきた。1つ1つ見ているとその山に登った思いが甦えってきた。永年の登山ノートと付合わせてみた。

 お山「富士山」、中3・15歳、友人とその父親3人。寝不足の厳しい行軍、3776mには大層な時間が。中学校には山岳部があり入部する、夏は北山荘合宿、桟敷岳・魚谷山・品谷山へ。 蝶・常念は20歳、佐々里峠・演習林・小浜は22歳、京岳人の踏み跡。特に皆子山のツボクリ谷は好きだった。大山・蒜山、宝剣、初めての剣は23歳。

 27歳、黒部五郎岳は双六経由でした。泊りたくなる三角屋根、翌日カールの底から山頂をめざす、上の岳付近から雨模様になる。雨具をかぶり太郎小屋を目指した。ザックの肩紐が切れ、針金で結ぶ。稜線は風雨が増し小屋に退避、熱いラーメンを食し折立を目指す。ひとつ間違えば遭難の3人だった。33歳。徳本峠越えの上高地、先人の道をたどる。槍ヶ岳36歳、初めての奥穂高岳39歳。41歳、最初から山を学ぶため明峯に夫婦で入会する。初めての山行はリトル比良、女性たちが多かった。春山合宿は唐松・五竜。例会で赤坂山、先輩たちと横山岳・霊仙山・三瓶山へ。三ツ峠山小学校同級生との山行だった

奥穂高・槍のバッチが一番多くある、4個ずつ。穂高のメンバーは記憶にあるが槍は定かでない。楽しかった事、危険だった山行は何時までも覚えている。西穂から槍は47歳夏、会の後輩と臨む。馬の背、大切戸もしっかりと歩けた。南岳小屋の雨予報で新穂高へ下る、熱中症に後輩のポカリが命水だった。氷の山・大台ヶ原・弥山にも足跡。

 45歳2月、先輩たちと厳冬の赤岳に登る、下降路の文三郎尾根で10mほど滑落、翌年、中山尾根に誘われる、危機感覚は低かった。笠ヶ岳47歳夏、噂通り笠新道はきつく、小屋までは同僚2人が先着。錫杖岳48歳、薄気味悪い程の岩峰群、自然生の仲間(伏見山の会)と左方カンテルートを登る。谷川岳3月、東京の友人と。多くの山友と出会う。

 北岳4尾根は3年挑む。初回は取り付きの道を間違い、大岩がはがれ、相棒の井上さんの横を崩れ落ち命拾い。登攀意欲を失い、そのまま下山する。2度目はH、S、Ⅰの3人、誰がどのピッチを登るかは事前に決めていた、核心部は順番からⅠの番だった、Sが登りチームワークが壊れ苦い経験になる。3回目はH夫婦と3人、十字クラックにも試登、楽しい山行となる。でも、核心部のザイル操作がまずく、注意を受けた。51歳小川山には3年通うが? 雪彦山に鐙トレ。でも、金毘羅岩トレは延4百回を越えた。
穂高屏風岩は52~3歳、韓国・仁寿岳、タイ・プラナンにまで足を延ばした。58歳、先輩の誘いで甲斐駒から鋸岳の縦走、登りでバテ、山友に迷惑を最後の山行となる。
バッチが喜びや失敗を思いだす小さな証。素晴らしい山岳会と良き先輩、後輩に恵まれた「山と友と人生に」、謝、謝、謝。
平和でなければ217号
棚の上のヴァイオリン(下) 
   昨年9月、ディサービスの女性職員さんが敬老週間に職員も出演するので、「何かやってもらえませんか?」「前回は手品をして貰いました」「4穴のハーモニカなら少しできますけど」「それでお願いします」「するけど前座の短い時間にしてや」「その後、施設長の息子さんたちの演奏があります」

 当日まで私なりに練習する。選曲は①埴生の宿 ②旅愁 ③もみじ、ここで息抜きに手品。④夕焼け小焼け、最後は「ヘイ・ジュード」の5曲。

 いよいよ本番、少し失敗もあったが、前座の役目は何とかこなした。利用者さんにもそれなりに喜んでもらえたようだ ?

 施設長の息子さん2人は「何んと」あの楽器で登場する。小学1年と4年の兄弟が奏でる曲は「姉小路10周年記念」に職員さんが作詞・作曲した「あねゃこうじ」。演奏に合わせ職員さんが歌う。伴奏は施設長のピアノだった。私も思わず口ずさんだ。

 舞台? は子供たちの見事なテクニックに魅了され涙ぐむお年寄りも見られた。アンコールの拍手が鳴りやまない。

 次の出しもんは職員さんのフルート、クラリネット、エレクトーンの合奏だった。

「瀬戸の花嫁」、「もみじ」に合わせての2部合唱も圧巻だった。敬老週間の出し物は様々な楽器の音色を聞くことが出来、利用者さん、家族、職員さんがー体となり宴も終りを告げた。

 私は直ぐに施設長の親子を自宅に来てもらう。子供たちは母親と大切な楽器をしまいながらお菓子を食べる。勿論、あの事を色々ききたかった。

「この楽器は先生の個別指導を受けるのでお金の掛かる習い事、2人が継続されてはしんどい!」「やっぱり、そうなんや」「ピアノなら家にもあるので楽なんですが」と父親。「調弦は誰がするのですか?」 母親が「音感が少々ありますので」。

 「来たあの楽器の出番が来た」と感じた。私は棚の上に置き去りの楽器を持ってきた。「これを調整してください」。上の息子に音を出させた。弦を確めながら、彼女は弓を操りだした。それは、それは美しい残暑の「初音」だった。

練習の第1歩が始まる。どこがドレミの始まりかも全然わからない。もう一度取説のCDを見ることから始めよう。あと7年で何とかなるだろう! 今さら、音楽家? になるわけではない。80歳のぼけ防止の遊び、遊び ! 所詮、山もアソビ、アソビ !

平和でなければ216号
 母はどんな人だったのですか
  誰でも美しい映像を見たり、知的な文章を読むと何となく癒される。「これはいい」と思うCMは少ない。「プーチンロシア」のウクライナ侵略報道を見るたびに、「母はどんな人だったのですか」で小学生の男の子が尋ねて始まる大和ハウスのそれは殺伐とした時間を幸せにしてくれる。
「厳しくて、優しい人でした」と答える大学講師の父親。それを聞いた息子は生意気盛り?「矛盾していますね」
 父親「人は皆、矛盾しているもんです」息子はすかさず「ともみさんも矛盾していますか」「矛盾だらけです」息子「そんな人が先生でいいんですか?」

 父親「そのほうがみなホットするんじゃないでしょうか」息子「ぼくも先生になれるかもしれないですね」父親「ほら、小さな希望が生まれましたよ」と未来を見据えるかのように、CMは終わる。どんな映像であるのかは皆さんも一度は見たと思いますよ?

 昔から、映画・芝居・小説等で子供を味付けに使うのは禁じ手と言われたほど、子供の台詞、演技、仕草は登場するだけで見る人を釘付けにする。それほどかわいいし将来を託すに値する存在だ。

 ウクライナ侵略のような理不尽な戦争がはじまると犠牲になるのは女性と子供だ。社会・共産主義の国がこんな戦争を引き起こすなんて? みんなの疑問だ。大多数の国民の選挙で選ればれた人ならするはずはないと思うのは間違いか? 1党独裁の弊害! 昔、ドイツ・日本もおかしな神? の元に残虐行為を行った。歴史は繰り返すのだろう。

 人と人、国と国が仲良くするのにはいつの場合も話し合い、世界にテレビ演説で助けを求める前に外交努力をするべき行動ではなかったか? 守るべきは国民の命である。

遠くの親戚より近くの隣人を大切にする、日本のような資源のない国は平等互恵の外交が不可欠である。経済・軍事同盟が平和をもたらすとは思えない、この侵略戦争を見てその思いが確信となった。軍事費の拡大は、世界の緊張感を増幅するだけである。

小さいときから平和の大切さを学ぶことが必要である。全世界から「平和ボケの国」と揶揄されようとも「プーチンロシア」のような国にも、特定の国だけの言いなりになりたくない。我が国憲法9条「戦争放棄」は世界のお手本となる理想の条文である。
子供たちに「日本はどんな国だったのですかを」を恥ずかしくない様に伝えることを願うばかりである。「話すことは」は相手を理解する糸口であることを教えている。
 平和でなければ215号
真夜中のラーメン
 おなじみのグループホームに病院から帰ってきたおじいちゃん。口から食事をとると誤嚥して、肺炎になるリスクがある。職員さんもおそるおそるだ。

深夜に、ぱっちり目覚めたおじいちゃんが夜勤者のいる食堂に出てきて「ラーメンが食いたい!」と言うのだ。その断固たる調子に驚いた介護者が、今なら食べられると踏んでラーメンを作った。おじいちゃんはごく自然に自分でラーメンをすすると、「うまい」と会心の笑み。その様子を動画に撮りSNSに投稿したところ、予想した通り大炎上する。

 もしもの事があれば誰が責任を取るのだ、個人の判断で勝手なことをしては許されない。利用者さんの我がままだけを聞くだけでいいのか?等である。

 本当にそうなのか? 施設入居者は介護度3以上で食事に何らかの介助を要する方がほとんどで入居者20名のうち、ペースト状に加工した食事を食べている方は9割近くになるそうです。使用するスプーンやテーブル等も介護、看護、リハビリ、栄養等の専門職が一人ひとりに合わせて工夫をしていますが、いつか必ず食べられなく時がやってきます。

 認知症が進行すると口を開けたり、咀嚼するのが難しくなったり、食事中にもおきる。食後、随分時間が過ぎてから嘔吐や、飲み下しが出来ず胃に送れず喉元に溜まり、誤嚥性肺炎の原因となり、「むせて」背中を叩きすぎ骨折させることにもなる。吸引も非常に苦しく繰り返し起こることになる。

 精神科の医師も同じような話がある。隔離や拘束を巡ってそれを止め様と言う意見が出ると、必ず、ではどうするんだ、治療にならない、少ない人員で必死でやっているのだと反対される。だが、医療の世界では両者が同じ場所で真正面から意見を交わすことはない。

 介護の世界は、まだ歴史も人も若い。模索と試行錯誤のただ中、それを阻む大きな権威もなく、自由な討論が許されるのだろう。大切なことだと思う。
 
たかがラーメン1食、でも人生の終わりにあって意味が違う。最後の晩餐かもしれない。介護の専門家は命を繋ぐだけではなく、個人の思い出や価値感ともつながっています。「どちらが正しい」ではなく「どちらが良いかを」判断すると思います。
「その人らしく」を追求する介護施設、食べたい思いを伝えてくださいだった。
 平和でなければ214号
洛中の穴場③
  「1本しかないのに千本通りとはこれ如何に」。もうお解かりですね。今回は千本出水付近から。千本東側に「相生食堂」がある。鉄道模型(Nゲージ)の走る飲食店です。お子さん、お孫さんを是非連れてあげて下さい。

さあ、出水を西に歩を進めましょう。お寺がこんなにあるなんて! 北側の「長遠寺」こんなにも美しく仕置きされた境内、坊さんのたゆまない修行の跡が見られる。
そこから一丁ほど行くと南側に「光清寺」。昭和の庭師重森三玲の作庭したダイナミックな石組み。大きく白砂で「心」という文字が書かれている? さらに「出水の七不思議」の「浮かれ猫」の画も。 向かいにある「本昌寺」、こんなに京都らしい自由な寺はない、「ペットと入れるお墓」。この2つは親戚? 出水通り静かでいいですよ。そして七本松通りを丸太町に下ろう。

ここから市バスに、智恵光院で下車。 少し北にある、日暮通椹木町の「佐々木酒造」。銘酒「古都」、「憲法9条」もありましたが、俳優佐々木蔵之助の実家。大人のお土産にどうぞ。
 再び、バスで河原町丸太町に、東三本木通りにある「山紫水明処」。頼山陽の居宅。書斎から見る、加茂の河原越しの東山三六峯は見事な趣き。参観はホームページで有料。数年前にとにかくうまいドリップコーヒー店「三本木」が駐車場に変わっていた。
 さらに夷川通りまで下る。「京都市立銅駄美術高等学校」の南側に京都三名水の「染井」がある。これからの穴場に備えペットボトルに補給してください。「醒ヶ井、染之井、縣井」が三名水でしたね。冷たくて美味しいですね。
 少し南、木屋町二条の「島津創業記念資料館」無料。季節限定、確認必要。

千年の古都は案内書で教える場所にはない! 「商ばかり」。ガイドを参考に自分の京都を発見するのが醍醐味‼ 現代と過去を結ぶ縁。それにしても高い拝観料、税の公平性・累進性ならお寺はせめて御布施(金額自由)にすべきである。どんな商売にも必要経費は掛かる、問題は当局の神社仏閣等への震災課税のチャンスがありながら完全放棄し、特別扱いをする。穴場シリーズを記す礎だった。 (終)
 平和でなければ213号
行ってみたい2つの
  私は旅先を小説、芝居等の中からを探すのも好きだ。目的は景色を見ることだけではない、その地で暮らす人と話し、食べ、呼吸する。そしてどんな影響を受けるかを知りたい。よく似た2ヶ国を見つけました。

 ナポレオンは皇帝になると、悪行の数々を犯す。「ワーテルロウ」の戦いで敗れ、「セント・ヘレナ島」に流刑、英国はトリスタンデクーニャ島から幽閉の島を監視する。南アフリカから2800㌔。ブラジルから3350㌔にある絶海の孤島。その火山に形成された島が1961年に住民の領域エジンバラから噴火が始まる。 

英政府は島民はじめ守備隊を守る為、救助船を派遣する。火山活動が下火になり、 避難先のロンドンから故郷に戻るかどうか? 住民投票が行われた、なんと98%の高率で島に帰還することが決まる。 小さな島は耕作面積の少ない中、3千人にも満たない住民が自治を守り暮らす、そんな姿は小説や舞台に再三登場する。
最小の社会主義国ともいわれた? どんな毎日を送っているのだろう?

 もう一つ、赤旗の小さな訪問記事だった。西アフリカの同じ大西洋に浮かぶグランカナリア島(スペイン)。その小さな島に「ヒロシマ・ナガサキ広場」がある。1996年に作られ1.5mほどの碑に日本の憲法9条のスペイン語訳。青や黄色で縁取った鮮やかなタイルにあの戦争放棄をうたう条文がつづられている。「大西洋のハワイ」とも言われる。穏やかなそうな島民一人々に会って話をしてみたい。

地元のテルデ市長は「原爆は虐殺。戦争は、決して物事の解決にならない、を知ってほしかった。この憲法は平和を願う島のメンタリテイにもかなう!」
 島は大航海時代にスペインに征服され、2万人いた先住民は殺され3千人だけが島で行き延びられた。その他は奴隷として本国につれ去られた。「私たちは土地を去った人、殺された人の苦しみがわかる、そういう人達を支えたいと願う」

似非皇帝と住民自治の島、歴史の残忍さを陽光で暖めた「戦争放棄」の島。二つとない理想郷それとも桃源郷かもしれない。私を旅への夢に掻き立てる。
 平和でなければ212号
芝居の力
  労演12月例会は「左の腕」無名塾公演。勿論、仲代達矢が主演で前回の「俺たちは天使じゃない」から5年ぶり、感の良い人は題名から時代劇を想像されるだろう。そのとおり松本清張(原作)「無宿人別帳」からの芝居だった。 

 幕が上るとすでに夘助(仲代)は舞台の上手に登場していた。深川の料理屋松葉屋の片隅。弁当を遣わして貰う内、親子で松葉屋に雇われるようになる。板場の銀二は夘助の娘に恋心を持つ。そんな折、稲荷の麻吉という目明しが夘助の左腕に常に巻かれている白い布に目を留める。執拗・残忍に捕縛の網を狭めていき・・・。

 何時の時代も一度犯罪を起こしたものには過酷なその後が待つている。「夘助もかつては悪党だったわけですが、そうして過ちを通して培った豊かな人生も間違いなくあったはず」と演じる仲代さんの眼差しはこの上もなく温かい、それは70年の演劇人生が紡ぐ、落ち着いた台詞廻し、仕草に現れる。

 その演じない自然体の芸は見る人に安心感を与える。「どうにか・・こうにか・・此処迄・・来られた。あと一歩!、もう一歩!芝居の力を、私は信じてみたい」役者人生の集大成として清張の傑作時代小説に挑みます。と語る。

 清張は20歳の時、治安維持法の下、左翼運動に関わった容疑で小倉署に10日間留置される。その体験が「無宿人別帳」の元になる。「釈放されてからも刑事がたびたびやってきた。父親はその度にタダ酒を飲ませ、刑事のしっこさを思い知る。その様子は目明し麻吉の生態にも重なる」と創作の原点を明かした。

 近頃、秒読みの時代の様にわれわれ人間は日々何か大切なものを失っているのではないだろうか・・・ふとそんな思いに駆られる時がある。「効率」だけがすべての尺度に変わり、「市場原理」「自由競争」を競って取り入れたのだ。 同時に、ヘイトスピーチやブラック企業などの「不寛容」が世界中にはびこる。新自由主義のもとで、それはいつか来た途「戦争への道」を開くと仲代は肌で感じたのであろう

 終章、夘助は元の子分の力を借り、稲荷の麻吉をいさめ、松葉屋の女将や銀二の止めるのも聞かず、元の世界「飴売り」に戻る為一人そっと松葉屋を出ていく。

 仲代は3度のアンコールに応え、深々と丁寧なお辞儀を繰り返した。感動の拍手はいつまでも、いつまでも続き、我々を「寛容」の世界に導いた。謙虚な長寿渾身の演技だった。

 平和でなければ211号
 私の初夢
 「ひだまり」の夢

以前、毎週木、金に「いそしぎ」(知的障がい者の店)が開かれた。入り口を入るとメンバーの「いらっしゃいませ」が迎える。お客はほとんどの人がコーヒーを頼む。水は京都三名水・梨の木神社の神水。熟成された豆をひき、コーヒーはネルで漉し、熱く熱く暖める。器は勿論、皆が作ったカップ。 

ひと口飲めば、「これや」。とりあえず、京都一、いや日本一美味しいコーヒーをお客様に出すことを努力しよう。全国から「いそしぎ」のコーヒーを飲みに来る人々が列をなしているのが見える。家族・支援者に喜びが湧き上がる。次の闘いのイメージに繋がるに違いない。自分たちが訴える以外に道はない。  

待っていてはだめだ!  さあ、明日からはじめるか!

      

すでに、山田監督の撮影は始まっていた。「姉小路」の玄関「ひだまり」の「いそしぎ」の喫茶シーンだ。全景が写り、パーンアツプされ、メンバーが淹れるコーヒー、それを運ぶ女性、美味しそうに飲む常連さん「何か」女性をからかっている。監督はそんな日常から映し取っていた。

次は2階の「デイ・サービス」。そして3・4階の「グループ・ホーム」。5階は障碍者の住居、街中の小さなビルで様々な人々がその人らしい生活をしている。そんな「姉小路」の日常をカメラが追う。物語りは?

2030年  正月公開映画「その人らしく

 平和でなければ210号
チョット嬉しいこと⓶
先月、千葉県船橋市のM宮さんから「山岳写真同人四季」のカレンダーが送られて来た。梱包から取り出そうとした、小さなUSBメモリーが丁寧に包装されていた。

 早速、パソコンで再生する。1989年7月29日の西穂小屋だった。出発前、北穂小屋までのコース確認、行動食・雨具等の点検を後輩のT山と行う。その模様が数分にわたり詳細に写されていた、32年前。

 前日、独標へのルートを下見して、指定された部屋に入る。2人の男性が居た。その1人が高価なビデオ撮影をしていた、それがM宮さんだった。山で出会ったよしみに4人で記念写真を撮り合った。それ以来、年賀・カレンダーの交換が始まった。

 M宮さんは奥穂小屋経由で涸沢へ下山、我々は槍までの永旅、早朝にも拘わらず起きだしてエールを送ってくれた。

 西穂、天狗のコル、馬の背から奥穂の岩場も心配したほどもなく、緊張を楽しみながら通過出来た。三番目の高峰で十分展望を堪能する。昼食は穂高山荘のベンチだった。午後から一番、涸沢岳からの下りの鎖場は慎重に素手で握る。3時過ぎに無事、北穂小屋に到着する。

 2日続の朝早、小屋から直ぐの最大難所も落石もなく安全に下降できた。キレット底までは寝不足も陰をひそめていた。はるか北穂高を望む脇道で朝寝兼大休止。あとは南岳の登りが注意の箇所、T山と微笑みを交わす、今まで行程の成果だろうか?

 南岳避難小屋で今日以後の予報を教えて貰う、2日間は雨模様、相棒と相談する。天気の良いうちに下山を選択、2人共緊張を強いられる縦走に終止符を打ちたかったのが本音。畳の上でぐっすりと眠りたかった。そのまま南沢から右俣を下り、新穂高を目指した。下界は灼熱地獄だった。私は途中、熱中症気味になり、T山のポカリで元気を取り戻す、「2本あるから、全部飲んでもいいよ」
 
帰京後、M宮さんに送る写真を探した、縦走に気を取られまともな写真は1枚もなかった。それでも何とか1枚を送った。

 極小のUSBメモリーは岳人の永い間の思いが詰まる映像と50代で早世したあの真面目なT山が記録されていた。1度も会ったこともない友人を身近に感じた瞬間だった。
  (to be cont)
平和でなければ209号 
「企業広告」の鏡
 「めいほうの皆さん」9月22日、主要全国紙、日経・朝日・読売に掲載された企業の全段意見広告を見ましたか。すごいインパクトがありましたね!
汚れ捨てられたクマのぬいぐるみの全面写真と共に、左はしに「国民は自宅で見殺しにされようとしている」
その下に更に小さな小さな文字で「今も、ひとりで亡くなっている人がいる。怒りと悲しみでいっぱいになる、この国はいつからこんなことになってしまったのか」

 5月11日の意見広告
 終戦末期、真ん中に丸いコロナウイルスを描き、少女3人が竹やりでついている全面写真。「私たちは騙されている。この1年は何だったのか。いつまで自粛すればいいのか。ガマン大会はもう終わりにしてほしい。ごちゃごちゃ言い訳をするな。今こそ、怒りの声を上げるべきだ」。「このままじゃ政治に殺される。ワクチンもない。クスリもない。タケヤリで戦えというのか、このままじゃ政治に殺される」
文章の終わりに、これも小さな小さな字で宝島社。右端上に赤字で「緊急事態」。
 
7月、大衆小説好きの私が何気に本屋で探し読み始めた大江戸「八丁堀のおゆう」(作者山本巧次)、主人公が江戸と東京を行き来して現代の警察捜査方法を活用するという筋書き、最初は馬鹿にしていたがはまるんです。若い人にも支持されている。この出版社がこの意見広告のスポンサーだったのです。驚きでした。

1998年から社会的なメッセージを前面に出した新聞広告を掲載している。主要業務は若い女性向けのファション雑誌、若者・中高年向けも独占している。
最近の新聞、広告掲載の多さを考えると、この宝島社の社会への伝達と言う社会的責任をに全うしている。特にテレビ、新聞の政権よりの忖度は読者の反感と言うよりジャーナリズムの道から逸脱している。若者のテレビ・新聞離れの一因。

石油資本や電力資本のイメージだけの気候変動への形だけの姿勢、新聞資本、テレビ業界、特にマスコミ関係の右傾化の顕著さ、ジャーナリズムの政治に対する批判姿勢の及び腰は目に余るものがある。NHKに至っては批判どころか翼賛、追随の姿勢は目を覆う。本・新聞読者、テレビ・ラジオの視聴者に真実の声を届けることがマスコミ・ジャーリズムの本来のあるべき姿。

朝から晩まで総白痴になるほど、どのチャンネルも吉本芸人を使い、ニュース・スポーツ等あらゆる番組を凌駕、それが行政の指針の如く。20数年前から莫大な費用をかけて行政や国民に奮起を促す宝島社。マスメデアの鏡と言うべき存在だろう。 
平和でなければ208号
岡目八目 
  日曜日のEテレの午前10時からの将棋・囲碁の時間は休日の楽しみだ。もう何十年も見ている。囲碁は「めいほう」でもH折荘での行事では何人かが指しておられる。下手の横好き・遊び好きの私も観戦をしてみたい。

 どちらも互い戦なので調和が必要である。力量が同等であれば、将棋では先手・後手番の差はあまりないが、囲碁では白番にコミ(ハンディ)が付予される。将棋に比べて指し手数が格段に多くなるから黒番が少し有利になる。ここに昔から研究し続けられた定石が生まれる、最善手と言われる本手・本筋。しかし、留ってはいない。

 序盤で囲碁は大場に互いの石を置いてゆく。将棋も定石により王将を守る形で駒組を進める。急戦の一つとして「横歩取り」がある。飛車先の歩を進め、相手の角筋を明けたその歩を取る戦法で、序盤で1歩得になるが、自陣の防御がおろそかになり、敗着の1手になりかねない。著名な棋士の研究が数限りなくある。

 最年少記録(19歳1ヶ月)を持つ藤井三冠の2020年度勝率は80%、戦法は「矢倉」88.9%、「居飛車」88%、「角替わり」78%、「横歩取り」は61.1%と格段に勝率が下がる。「リスク」があっても急戦では多くの勝機もある。そこを考えるのがプロである。要は「人真似がイヤ」、大切なオリジナリティー。

 1つの事を継続的に行えば「色んな事が見えてくる」。人と同じがイヤ、流行に流されない事が秘訣。夏には多くの人が「水泳」と言えば「山」だった。

 初めは近郊の低山、しばらくして高い山から縦走へ。何時も「ちょっと」の思いがあった。ある岩場の下りで自分の経験不足で危険な目に合う。ここから岩に対する興味が沸いてきた。めいほうに「岩好き」が沢山おられた。馬鹿になるほどの「岩場通い」がはじまった。その頃、岩例会は毎回、最低でも5人、多いときは20数名が集まりにぎやかだった。誰もが個性的で楽しかった。

 あの人達、安倍・菅は専門家や定石を聞き入れない、自分の意志に逆らう輩は「反日」「反共」、「恫喝」・「左遷」等、高学歴への劣等感。「ガキ大将」の幼児病。介護職員さんから一番嫌われる利用者。「〇×さん大丈夫ですか」と病人扱いとなる。

 この人、誰の目にも「横取り」と思える事を平気でする。ひとりっ子の「わがまま・嫌がらせ」? 認知症? 唯我独尊、あの独裁2人と同じ、上から目線の己の事ばかり!
 「あっ」歩を忘れていた! 何の話をしていたのか? 「横歩取り」将棋の話だった。
 平和でなければ207号
ふわふわオムライス
 竹屋町東洞院にあった「ノエル」。店に入るといつも「ママ?」のフライパンを扱う音がする。かって、誰もが聴いた台所から流れる母親の協奏曲だ。あのふわふわのオムライスを創る。この店が閉店して何年になるのだろう。
ライスの中に炒めたセロリと玉ねぎの歯ごたえが「うり」。もう8年になるのだろうか? それ以後これという「オムライス」に出会わない。煮詰まったデミグラスソースをかけたものばかリだった。ところが嬉しいことについに見つけたのです。姉小路寺町西南側「ル・ガブリエル」です。

 カウンター7席の小さなフランス料理店。昼のランチは週替わりのオムライスのみ。ポークのデミグラスソースや湯葉と白菜のクリームソース、鶏肉ミンチとトマトのカレー風味ソースなど週ごとの多彩な味が訪れる人を魅了する。
税込み900円。美味し3条件安い、旨い、飽きないに合致している。
 
 オーナーシェフは東京、大阪等のホテルで修行した経験から「出来立てを味わってほしい、大事にしているのは料理のバランス」。カウンター席からシェフの繊細な舞が眼前に展開される。まるで顔見世である。一人用のフライパンにチキンスープとバターライス、パプリカ、玉ねぎ、にんじんを入れ炒めトマトソースで味を調える。これを別のフライパンで作ったオムレツとを合わせる。この一連の仕草を「あっ」と言う間に終わる。お皿に盛り、付け合わせの野菜に特製のドレッシングを掛け、野菜スープが付く、時間にして10分もないだろう。
 この早変わりを見ながら、「空腹に勝る調味料なし」で臨む。コクのあるソースとライスが口の中で交わる。スープを一さじ口に含む、野菜を口に運び、メインの山にスプーンを入れ、噛むと言うより味わうと言う方が正確な表現、真に幸せなひとときである。

 店を支える女性はレジ、配膳、卵をかき回す黒子さん。このコンビがこの味をもたらす。店名は開店の年に2人で旅したフランスの世界遺産モンサンミッシェルのホテル名。ル・ガブリエル(天使の誘惑)だそうだ。  
芝居は訪れる人に、夜の部も行ってみたい誘いに駆られるマチネーの舞台だった。
  平和でなければ206号
ちょっと嬉しいこと
 「めいほう」の原稿はA4で書き、B5に縮小して編集部に送付している。何でこんな手間をかけるのかは後日役に立つからである。以前は毎月トップで投稿していたが、最近はだんだん遅くなってしまう。編集部に申し訳なく思っています。

 ワープロがパソコンに変わって仕事が簡略化される。エクセルの機能には驚かされた。表を作ると。年次別、月別、日別など、手数料の計算等合計・掛け算、割り算は得意分野。年末の確定申告の医療費集計等は楽なもんだった。

最近、一寸と頭を悩ましたのはA4・エクセルを何時ものようにB5に縮小すると表がおかしくなった。A4の誌面内の表の数の多さだった。20年以上使っている原本である。何とか出来ないかと考えた。2~3日色々考えPC上でやってみたが「ダメ」だった。次を創造するしかない?
 「押してもだめなら引いて見な」の精神で、拡大から考えてみた。それも何となくでした。「ひょっとしたら ?」完成図はB5が2枚、B5の倍はB4。A4の倍はA3、A3を縮小してB4に出来たら「ほんまや !」「ひょっとするな ?」

 直ぐにコピー屋さんに走る。大型のコピー機に原稿を置く、それを考えたとうり実行。コピーされた紙を半分に切断する。想像したことが出来た。皆さんは当たり前と思うが「ホンマに嬉しかった」。

 もう一つあるんです。神戸の友人がメールで送付してきた図形。この形が作れますかという課題だった。2~3日考えたがなかなか良い考えが浮かばなかった。「囲炉裏端」にも投稿して知恵を借りた。最初にH折さんが完成図を製作してくれた。それをヒントに直ぐに色紙で試作し、段ボールで作ることが出来た。一寸自信になった。それ以後急に何かを作ることが面白くなって来る。

 
前から電動カミソリの透明カバーがいつのまにかなくなり困っていた。「よし、段ボールで作ったろ」カミソリのヘッドに薄い紙で型を取る。丸み部分と両サイドに合わせ薄い段ボールに形を写す、カッターで丁寧に切断する。曲線の部分はそっと扱う。案外、上手くいくものだ。パーツをボンドで張り付ける。柔らかそうなところは内側を小片の段ボールで補強する。カバーが落ちない工夫もした。
 1~2日乾かす。結構な完成だった。電動カミソリはそれ以後、洗面道具の1つになる。最近、頑張って練習している「カリンバ」(楽器)の上蓋付箱も制作する。

 この時期、時間つぶしと趣味をかけた大事な遊びとなる。次作品は大型家具、洗濯物入れの注文を受けている。後日、神戸の友人がエクセルも拡大・縮小が自在と言ってきたが、製本の原稿には不向きだった。
 平和でなければ205号
「平和でなければ」寄稿一覧
 302005年7月から始めた「平和でなければ」、しばらくして内さんの「西国88ヶ所巡り」も掲載、先達の免状を持つと聞く、お互いに第46期まで継続できたと思っています。それにもまして明峯山岳会の機関誌「めいほう」522回を数える、幾多の困難を乗り越えたであろう。感謝と関係者諸氏の労苦を今、知ることが出来ている。山に登るだけでなく会運営の円滑な方策を練り、論議・実践は生半可事ではない。 特に登山事故には  心を痛められたろうと想像する。私も数回、昨日まで元気に登っていた仲間の土色の顔を見たときの、「後悔・悲嘆・絶望」。その時の運営委員会の虚しさは如何ばかりだったろう。そんな思いを二度としたくない安心・安全の登山を追及してきたのだろう。不幸にして山で逝った仲間の分まで人生を楽しもうと思う。山に行けなくても、その空気を共有する事も大切な会活動であると思い続けて来た。これからも山行しない会員で生涯を貫こうと考えている。
205号になる今までの足取りを一覧表にされていますが、ここには掲載できません。「めいほう」7月号をご覧ください。
平和でなければ204号
棚の上のヴァイオリン(上)
  会社を退職してしばらくして70歳になり、何か記念にものと柳池中学山岳部の仲間5人と1泊で北山荘で集う。それぞれ目標、挑戦するものを話し合う。私は体調も考慮して次の三点①携帯をスマホに変える ②専門学校に入る ③一番難しい楽器を操る事、を考えた。まぁ 我々の「桃園の誓い」、遊び!遊び!

 スマホは何とか物にできた。当時スマホは友人の中では最初かも。学校は永年の夢、小説・エッセー・脚本の基礎を学びたかった。

 週一の土曜日の午後。学友も直ぐにできた。最初の授業でたまたま空いていた席の隣の女性でした。既婚者だったので気楽に話も出来た。この人がいたから1年間、京阪電車通学も出来た。

 ③は生協の共同購入特別注文書を見ていた。趣味のページにこの楽器が掲載されていた。こんなものも売るなんてと思う、さすが生協だなあ、とのはざまだった。価格は15000円。1年千円と思えば安い。15年間で何とかすれば? 80うん歳!

 直ぐ、申し込み用紙に商品番号を記入する。1週間もすると注文の品が宅急便で送られてきた。嬉しい気持ちと「出來ひんはなあ」とがないまぜ。申し込んだときから独学で最終的に出来ればと考え、望みは一番難しい事に挑戦する、そのことだった。

 梱包された箱を直ぐに解体する。ケースの中に本体、弓、教材のDVD、予備のニッケルのストリング4巻き、保証書があった。
早速、ビデオを見る、楽器の名称、取り扱い方、調弦。次に姿勢、構え方、頸に挟む。もうここで行きあたる。調弦て「どうすんの」。楽器は「うんとも、すんとも」音を発しない?

 PCで色々検索して解決方法を探ったが、調弦については楽器を習う先生にしてもらえだった。顎に挟む器具も4~5千円以上する。松脂を購入するとうん万円。もう一台楽器が買える金額となる。馬鹿馬鹿しくなり、それ以後、棚の上の荷物となる。

 あれから8年、すでに半分以上の年月が経過していた。大丈夫かいなあ! これがひょんなことから日の目を見ることになる。ここからもっと面白くなるのが世の常、残念ながらちょうど紙面が終わりです。 次回もあります。ああそれから不要不急で 言えばバッハ会長の来日 これは関係ないか⁇ 
 平和でなければ203号
パッチギ
 先3月、栃木の白鳳大学の新学長に北山修氏が選ばれた報道を見る。北山修と言えば1968年、京都府立医科大学に在学中、フォーク・クㇽセダーズの一員として「帰ってきたヨッパライ」が一世を風靡する。私は変な歌と思った。    その後「イムジン川」「悲しくてやりきれない」「あの素晴らしい愛をもう一度」は直ぐに口ずさめるし、引き寄せられ、何故か目頭を熱くさせる。
一寸かっこいい加藤和彦、開き直り気味のはしだのりひこ、冷静な大人の北山修3人3様の天才かも知れない。GS全盛の時代に突然、京都に現れたアマチュア集団がフォーク界を凌駕したのだ。正に名前通りの「革命児たち」。

 2004年、「パッチギ」(監督 井筒和幸)はその年、日本映画界全ての賞を獲得する。日本人少年と在日コリアン少女の淡い青春物語。放課後、少年は朝鮮人高校にサッカー親善試合の申し入れに行く、部室からフルートの音が聞こえる。可憐な少女はあの沢尻エリカ。そしてこの曲が流れる。
「イムジン河水清く滔々と流れる ♬ 水鳥自由にとびかうよ♪ わが祖国、南の地、思いは遙か♪ イムジン河水清く滔々と流れる ♬」「北の大地から南の空へ♬ 飛びゆく鳥よ♪ 自由の使者よ♬ だれが祖国をわけてしまったの ♪ 誰が祖国をわけてしまったの ♬」

 あの頃こんな歌詞を唄う勇気に考えさせられた「イムジン川」。覚えやすく、郷愁をそそり、現代よりもっと朝鮮人への差別意識が強かった時代、その南北の分断を取り上げていた。若者は素直に引き寄せられ、何故か説得力のある詞・メロディー。それだけ歌い手も聴き手も!本当に純粋だったのだろう。

1968年年末、「イムジン河」は初売前日に発禁になる。当時の朝鮮総連事務局長は北山が見つけてきた歌は作詞・作曲者もいるし、詩が歪曲されているとの何癖だった。フォークㇽは翌年「悲しくてやりきれない」「青年は荒野を目指せ」を発売する。さすがフォーク界の革命者たちだ。

新たに北山修氏が学長になった白鳳大学の教育理念は「プルス・ウルトラ」ラテン語で(さらに向うに)、「パッチギ」は朝鮮語で(乗り越えて)。 経験のない困難な時代、我々も夢や未来に向って何が何でも乗り越えなければ。 
 平和でなければ202号
教えたくない老舗
  元気な時は自宅からどこへでもあるいた。油小路通りは丸太町から上は京都らしいたたずまいを残している。この通り沿いにある店は前から気になっていた。何回も通るのにこんなとこにあったのか。丸太町から少し上がる東側にある。油小路椹木町東北角「入山豆腐店」。

 大きな真黒な竈、真木を燃やし大豆を大鍋で煮て作る豆腐ですねん。それだけで旨さを感じるでしょう? 私が言うと贔屓の引き倒しになるので、友人に食してもらった感想文を披露しまっさ。

 「いつも何かとお世話になりますのに、昨夜はこんなに美味しいお豆腐と、又々とってもお美味しい卯の花(おから)を頂きこんなの初めて、ありがとうございました。あまりにも味が良ったので一言お礼を‼ 有難う」(原文のまま)
 「わしもこんな商いしているので色々食してきたが、泊りの客に出す朝食の湯豆腐よりも旨かった、まだまだ京都にはうまいもんが隠れているのやなあと呟く」雲ケ畑・洛雲荘の社長(古くからの友人)
 「家族6人で取り合いでした、あっち向いてこっち向いたら、あっと言う間になくっ
ていました、近くなのでちょこちょこ買いに行きます」(豆腐とお揚げさんを)

 安い、旨い、飽きないが旨いもんの三条件。豆腐、お揚げさんどちらも260円、卯の花は270円。味は食べてもうたらわかるのですが、まあ、ちょっとしときまっさ。月並みです「甘い、大豆の味がする、水気が適当」どす。
 若いご主人と奥さんと二人でしてはります。御主人が作る豆腐のおからで副産物を作ってはる、中でも感想文にある「卯の花」、「お揚げさんご飯」特に「卯の花」は生のシャキシャキの三つ葉が味に深みを与え、「お揚げさんご飯」は山椒が味を引き締める。とりあえず食べて貰わんとどうにもなりまへん!

 豆腐は好きな食材、なんと言っても冷や奴が一番、醤油に土生姜のおろしとネギがあれば一丁で軽く二膳はいける。京都は巧い土地柄、大覚寺横の「森嘉」、北野の「とようけ屋」、大徳寺横の「小川」(映画「マザー・ウォター」に登場)も結構いけたが最近は原料高もあり「水っぽい」、独断と偏見で言うと「あかん」。そして唯一マシやなあと思ってた「COOPのにがり豆腐」が拙い部類に入った。勿論、南禅寺の「順正」、「奥丹」は高価で何時でも行けるわけではありまへん。
 
 最後に入山豆腐店の御主人のお話をして終わりとします「観光客や一見さんに教えんといて、常連さんが大事やし」涙が出ると思いまへんか? 
 平和でなければ201号
映画音楽からの推察 
  山田洋次監督の映画音楽に対するこだわりを見るとこんなことも考えて制作するのか? 監督のクラシック音楽好き? を推測できる事例から紹介しようと思う。
吉永小百合主演の「母と暮らせば」はこまつ座の名作井上ひさしの「父と暮らせば」と
戦後「命の三部作」とのヒントから制作された映像である。バックにはメンデルスゾーンのあのヴァイオリン協奏曲のメロデイーが流れる。ドイツロマン派音楽の代表作。
 妻夫木聡がピアノ調律師の「家族はつらいよ」ではショパンのピアノソナタ第3番がテーマソングの様に映画を盛り立てる。

 監督と言えば寅さん、1969年の第1回作品「男はつらいよ」は「開幕の音楽」です。作曲は勿論、山本直純。49作もあったのですから主な曲を紹介したいと思います。
 僕の好きな満男君は41作目と42作目の「満男と泉のテーマ」と45作目「満男と泉」。さくらさんは9作目の「さくらのバラード」、33作目「風子とさくらのテーマ」、49作目「さくらのテーマ」と続く。
女王浅丘ルリ子の「リリーのテーマ」は11作目「寅次郎忘れな草」、15作目「寅次郎相合傘」、25作目「寅次郎ハイビスカスの花」、48作目「寅次郎紅の花」とやはりダントツだった。17作目「寅次郎夕焼け小焼け」の大地喜和子のぼたん、寅との相性はリリーよりも上だった、残念なことに急逝する。「ぼたんのテーマ」は三味線伴奏で小粋な味。どのメロディーも「寅さん」を見た人なら聞いたことのある哀愁に満ちたものだった。

監督初時代劇「たそがれ清兵衛」では、なんと井上陽水だった。曲名は「決められたリズム」。陽水の独得の歌声はエンドロールの最後の最後にこんな詞を流した。
「起こされたこと♪ 着せられたこと♬ 凍えつく冬の白いシャツ♬ せかされたこと♫ つまずいたこと♩ 決められた朝の長い道♬ ふざけ合うたび 怒られたこと♪ 静けさを区切る窓の中♬ 配られた紙♫ 試されたこと繰り返し響くベルの音 ♬」
井口清兵衛は夕刻、終業の太鼓の音を聞くと、同僚の誘いも断り家路に急ぐ下級武士の役柄。日々の暮らしに追われるそんな主人公を「たそがれ」と呼ぶ。悪家老に上意討ちの追っ手に選ばれる、果たし合いは清兵衛が壮絶な戦いの末、生き残る。
藩命と言う名のもとで・・・「決められたリズム」が静かに映画を締めくくった。

 何と繊細な神経の持ち主なんだ。映画の最中には音楽は1曲も挿入されない、初の時代劇の楽しさ、緊張感、喜び、権力への怒り・悲しさが見る人の心を揺する。映画作りの醍醐味なんだろう。素人目にも計算された監督・スタッフの心配りを感じた。そして清兵衛役の真田博之、相方宮沢りえの演技は山田好みの自然体、二人の未来も示していた。

 映画に限らず、創作は何時の時代にもあふれる希望、夢・想像力を育み、より困難にも打ち勝つことが出来ると考えているのだろう。脚本の重要性を感じた。    
平和でなければ200号
隣の芝生 
 スマホの呼び出し音、「佐代子の部屋」からだった。連れ合いは外出中、忘れて行ったのか?仕方なしに止めに行く。帰りにふと本棚を見る。「現代詩の長女?」と言う背表紙の一部が見える。面白そうな題、ぱらぱらとめくる。

 その人の名前は茨木のり子さん。こんな詩を謳っていた。
退屈きまわりないのが平和 単調な単調なあけくれが平和 生き方をそれぞれ工夫しなければならないのが平和 男がなよなよしてくるのが平和 女が溌剌としてくるのが平和
 ともすれば淀みそうになる平和をフレッシュに持ち続けてゆくのは難しい やがて退屈に倦み なよなよした男に苛立つ人が現れて どこからか勇ましい声が響きだす
倚(よ)りかからず  (73歳の作品)
 もはや できあいの思想に倚りかかりたくない もはや できあいの宗教に倚りかかりたくない もはや できあいの学問に倚りかかりたくない もはやいかなる権威にも倚りかかりたくない ながく生きて心底学んだのはそれぐらい じぶんの耳鼻 じぶんの二本足のみで立っていて なに不都合のことやある 倚りかかるとすれば それは椅子の背もたれだけ
 わたしが一番きれいだったとき (15歳で日米開戦、19歳で終戦をむかえた)
わたしが一番きれいだったとき 街々ががらがらと崩れていって とんでもないところから 青空なんかが見えたりした わたしが一番きれいだったとき 誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった 男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差だけを残し発っていった わたしが一番きれいだったとき わたしの頭はからっぽでわたしの心はかたくなで 手足ばかりが栗色に光った わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争に負けた そんな馬鹿なことってあるものか ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた わたしが一番きれいだったとき わたしはとてもふしあわせ わたしはとてもとんちんかん わたしはめっぽうさびしかった だから決めた できれば長生きすることに年とってから凄く美しい絵を描いた。

 なんとまあ優しい言葉で力強い伝達力。現在の不戦の歳月を誇りとしない政治に幻滅を感じるだろう。その上、命より「お金」が大事なんて、生きていたらどんなポエムを紬だすのか? 
高校教師のつぶやきを思い出す「隣の芝生は見るな、本箱は見せて貰え」が蘇る。素晴らしい教えだった事が今ならわかる。本年も1冊でも多くの本を読もうと思う。

(追記)毎月、巻末を拙文で汚し申し訳ありません。200号まで記すことが出来ました。今後、どこまで継続できるかわかりませんが、次の「明峯」を目指したいと思います。よろしくお願いします。
平和でなければ199号 
残された時間
   11月末、いつも行く有機野菜の店で昼食を摂っていた。突然、修行僧?が入ってきた。女性店主が自分の子供や孫に接するように「・・・さん」と声をかける。坊さんは「定食お願いします」「ごはんは大盛でなくて結構です」「よう頑張っているね」「あと3年の修行です、これから1~3月が大変です」
 食事を終えると「皆さんの幸せを祈願して読経させてください」直ぐに「衆生・・・煩・・・法門・・・仏・・・」と唱え、最後に「有難うございます」そして支払いを済ませようとした、主は「お布施です」とお代をとらなかった。

 僧が去ると女主は「・・・さんは以前この店に安全食品を配達していた」「時々、昼食を食べに来ていた」自分の生き方に悩み、いろいろと相談に乗っていた。
 他の客もその雰囲気に圧倒され読経の段になると全員その場に立ち、自然に手を合わせた。勿論、私もそれに習い経に耳を傾けた。最後に「仏道・・」が頭に残った。
修行僧を検索した。何と出てきました。彼が読んだのは「四(し)弘(ぐ)請願(せいがん)」と言う一番短い御経でした。町中で目にする墨染の修行僧が唱和するものだった。

「衆生(しゅじょう)無辺(むへん)請願度(せいがんど)・煩悩(ぼんのう)無尽(むじん)請願度(せいがんど)・法門(ほうもん)無量(むりょう)請願度(せいがんど)・仏道(ぶつどう)無上(むじょう)請願度(せいがんど)」(多くの人
が幸せになる様に勤めます。尽きることのない煩悩を滅します。計りがたく深い仏の教えを学びます。この世の最上のものである仏道を成します)。この世知辛い世に40代で仏の道を目指す。彼には連れ合いも、子供もあるそうだ。話を聞いただけで訳もなく感動した。この年になり「般若心経」もと思った。でも、漢字を見つけることに1日費やした。
 
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦役 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復妙是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集減道 無智亦無得 以無所得故菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛到夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虡 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶    般若心経

 今まで、宗教や信仰に全く関心がなかった。この若者が生き方に悩み、8年間もある寺に参禅、和尚さんに見いだされこの道に進んだそうだ。「衆生無辺請願度」(多くの人が幸せになる様に勤めます)が遠因だとしたら、私の思考を改めてくれた。知らない事は星の数ほどある、残された時を多く事の本質を少しでも学うと思う。
 平和でなければ198号
洛中歳時記
 

昭和二八年十二月三十一日京都日の出新聞の文化欄の小さな囲み記事から、京都市中京区烏丸六角東入る堂之前町花市さんの当主山下五郎(七十歳)さんのお話。

この頃、堂之前町(六角堂の門前町)も所帯数も多く、子供も二十人近くいました。明倫幼稚園から明倫小学校、初音中学か柳池中学で子供たちが学ぶ行程でした。

町内の一年の行事は、元旦に六角堂に町内全員が集まり、新年の貫主の挨拶から始まった。お年玉として、ミカンと紅白のお饅頭が楽しみだった。

春、氏神さんの祇園さんに行く、「お千度」の行事。本殿の周りを一周回ると百回分として十周が目標でした。町内の役の人が一周を回ると「飴」や「お菓子」をくれた。ほとんどの子供はそれを貰うために参加していた。

夏休みの宿題が気になる頃、お地蔵さんが二日間にわたり行われた。一日目、大人たちがお飾りの用意の横で我々は遊びだす。十時と三時にはおやつが配られた。スイカ割もあった。冷蔵庫が氷の時代、一貫目の氷で朝早くから盥で冷やされていた。

夜は屋台が組まれ盆踊りがひらかれた。後年は映画鑑賞やテレビでプロ野球観戦もあった。二日目は十時のおやつの後、福引が行われた。家庭用品の賞品は今も変わらない、三時のおやつがすむと、お地蔵さん用具は倉庫に仕舞われた。夜は当番の大人の「足洗い」があった。子供たちは最後まで遊んでいた。

夏休みが終盤を迎える。町内の中学生の先輩たちが小学校の児童の宿題の点検をしてくれた。秋、町内の最大の行事「区民運動会」が小学校で開催された。参加するだけで町内から、競技にエントリーすれば体振からジュースや文具が手元に届く。

十二月三十一日は六角堂の鐘楼で「除夜の鐘」の儀式があった。午前零時前、煩悩を払う読経の後、集まった子供や大人で百八の鐘を、一つ撞くたびに小石を並べた。当然、お供養のお菓子も配られ、そして堂之前町の一年が静かに終わるのでした。

この時代、子供たちは家族や地域の人々にいつも見守られていた。

(囲み記事シリーズから)

 平和でなければ197号
「届いたメール」

 先月4日、伏見山の会のS井さんが逝去された。もう少しで78歳を迎える前、2日違いの兄さんだった。2年前に医者から余命6ヶ月の宣告。会う度に自分の生き様を見せるのだと話す。5月2日、元気なメールが来た。

 Ⅰ黒さん今晩は。石斛(せっこく)が咲いています。猛暑に耐えてどうにか開花しましたが、総体に貧弱です。咲かない鉢もあり、これからつぼみが出そうな鉢もあります。珍しくⅠ黒さんに倣い、写真に撮ってみましたので添付します。

 先週の水曜日、意を決して一人でイワナ釣りに出掛けました。その前の週に歩けるかどうかを確認していました。どうにか歩けるのが分かりましたので、決行することにしました。釣り場まで1時間半の歩き。釣竿を出して「よいしょ」と第一投。いいポイントなのに釣れません。    

で、上流へと行きかけると、先を見ますと人影が‥‥。20メートルも離れていません。「そんなアホナ、誰も居やへん、おれ一番やったのに」です。

 まあ仕方ありませんから、川を離れて上流へ向かい様子を見ますと、川底から離れた登山道? の傍らにザックが4つ置いてあるではありませんか。川を覗きますと、どうやら2人1組での釣りかな? と釣りの形にはなっていますが、「こいつら素人」と見て先を急ぎました。

まあ礼儀として4~50分歩いてから釣りを始めました。渓歩きは多少不安があり物凄く慎重でした。おまけに副作用で手足が痺れていますから猶更です。

 指先の感覚がないと、あの細い糸が結べませんし、穂先に道糸を付けるのも一苦労、10分ほど掛かりました。渓流シューズで歩くのは足裏の感覚がないため、足元を良く見ないとすごく不安に、自信がありません。そんなこんなの鈍くさい作業を繰り返しながら、ここぞと見定めたポイントへ…。

 昔取った杵柄、見事に仕留めました。そうこうして1時間半ばかり、お昼ご飯も食べずに頑張りました。小雨ともみぞれとも解からぬようなものが落ち始めたので、ゆっくりと元来た渓を下りました。かなり歩いて林道に出て更に歩き、橋の下でやっとの昼食です。

 ドライカレーとコーヒーとカロリーメイト。仕上げは玉露と柏餅。空が晴れました。靴を履き替え下山です。「あー」、釣果は「つ」逃れの10匹でした。

 キッチンペーパーで水分を取り、小麦粉をまぶし焼いてくれたのは子供。良く肥えていました。淡白で美味しく、子供は追加でさらに焼き、結局4匹も平らげました。

 釣りに行ったあくる日からお腹シクシクが始まり、土曜、日曜とはチョット厳しく、月曜日は七転八倒の苦しみ。少し収まって昨日金曜日はまたまた七転八倒でのたうち回り、堪らず薬局で「劇薬」と脅された「とんぷく」を取り出しました。多分、イワナの恨みつらみでしょうかね、「罰が当たったのか」と思いながら「劇薬・とんぷく」を飲み込みました。

 再びソファーに横倒れ昏睡、目が覚めたら少し治まっていました。「嘘やろー」と言う言葉がありますが、今朝起きたらケロッと治っていました。めでたし、めでたしですけれど‥‥。 S井

 私はメールを読みながら彼の辛抱強い性格(弱音を吐かない)に感動しながら別のことを創造していました。

 こんな風景を描いた絵が脳裏に浮かんでいた。翁と媼を描いたものだ。お互いに年輪を重ね、縁側で何となく庭を見ている。媼はそれを見ながらお茶を入れている。「良い天気だね」「お昼は何にしましょうかねえ」「あったかい饂飩が」「ではそれにしましょうか」

何が起こるわけでもない平凡な日々、昨日と同じ今日がある。それまでひと波乱もふた波乱あっただろう。全て忘却の彼方に押しやられている。人生は短い。腹を空かした貧乏だった日々、あの楽しかった日々、悔しかった日々。でもなぜかいいことばかり思いだされる。 今そこにある幸せを感じる。

最後のメールは7月13日。今週から新しい治療法に入ります。腹水がたまりお腹がパンパンに! 腹痛止めは「人には譲ってはいけない」薬。

 楽しく頑張りましょう。夢があれば未来があります。もう一度、スポーツ・カーの購入です。(宝くじ次第ですけど)。 S井

平和でなければ196号
 Café Owl
 店頭でその看板を見て、直ぐに思い浮かべた。「owl」と言えば「フクロウ」、何年も前に仲間たちと読んだ「ハリー・ポッター」。主人公ハリーが飼っていた鳥。確か名前は「ヘドウィグ」ではなかったか?

 その時、「オウル」と発音していた。この店では「アウル」と読ます? 直ぐに辞書を開いた。Owl〔aul〕「アウル」。永い間、間違っていた。恥かしく顔が赤くなる。「やっぱり基本があかんにや!」

近所の病院で診察を受ける。11時前に終わり、昼食の時間。いつも行く店は休み。
「讃岐うどん」になり「みやこ」さんに行く。午前11時30分が開店時間、あと30分も待つのは寒いし、いやだった。隣の店が「アウル」。

 その選択を決めたのは私の胃。私の心ではない? と遊ぶのが昔からすきだ。
友人にもそんな良い意味で頼りになる仲間が集まる。何でも一度自分で考え、行動し、確める。行動学? 食べる物は新聞・テレビ・SNSの情報を鵜呑みにしないが鉄則。

 「アウル」の店内は山小屋風の今様の作りだった。4人掛けに2人で座る。店外の看板メニューで決めていた。「ミートドリア」を注文。連れ合いは「ワンプレートランチ」を頼む。久しぶりのドリア、ミンチ肉と野菜の配合が絶妙なバランス、その上、あっさり目のチーズで熱々の焦げ目が胃を十二分に満たす。

ランチは、綺麗に盛り付けられ、メインは鶏肉を野菜でいためたもの。食欲をそそり昼食にしては安価で適量。ご飯も白米でなく、雑穀米だった。スープも。

 私等が一番でその後、近くの女性社員1人。男性2人、家族連れ4人が入店。皆
常連さんのようだ。食後のコーヒを頼み、デザートを摂る。陳列ケースの中の品々を選ぶシステム。すべて手作りで女性好みの「アウル」。

 コーヒを飲みながら周りをさらに見回す。「なんと」そこかしこに「フクロウ」の人形がそっと置いてある。ドリアを堪能して店を後にする。自転車に乗ろうとする「みやこ」の店主が「ちらっと」こちらを見た。   (西洞院蛸薬師にあり)
平和でなければ195号
洛中の穴場②
       (数年前に書きました、もし行かれる時は確認を)
そうどすなぁ 今日は、ホテルのシャトルバスを待ちましょか? 烏丸御池北東角付近、中立売新町のブライトンホテルまで。 

ここからは御所を目指し歩く。桜の季節には旧近衛邸の「糸桜」「左近の櫻」で花見。円山、嵐山、平安神宮は人が多く花を愛でる雰囲気ではありません。

 次は下長者町室町の「松本明慶仏像彫刻美術館」開館は第1、第3土日。無料、電話で確認しましょう。日本の仏像彫刻を目指す人々の憧れの地。今日の紹介は「固め」の場所?です。

 子供や孫が喜びそうな「石ふしぎ博物館」(益富地学会館)有料。土、日、祭日に開館。出水室町東。少し硬すぎ? 化石、鉱石、岩石のオンパレード。

ここらでもう一度花見とする? 下立売の旧京都府会議事場と周辺の枝垂れ櫻。明治建造物とのハーモニーで少し心を癒してください。次に備え。

 さて、下立売通を少し西に歩く。北側に小さな「中信美術館」がある。何時も京都に関係のある絵画・工芸品等が鑑賞できる。もち、無料である。そこから小川通まで戻る。南角に「京の飴いしざき御所乃石本舗」と長い名前の老舗がある。昔懐かしい飴の花盛り、小学生も購入できる金額ですよ。

ここからはひたすら京の街並みを自由に下ろう。出発点の烏丸御池。姉小路角に「NHK京都放送局」。8Kの大型テレビで楽しむもよし、2階ビデオコーナーで「アーカイブス」を見るもよし。とにかく休憩にしましょう。

 少し烏丸を下る。西側に「京都伝統工芸館」。学生職人さんの卵が作る伝統作品、毎日様々な製作過程を見せてくれる。頼もしい限りだ。学生曰、伝統継承は感動と技を盗む事と「人まね、物まね」まだまだ半人前ですと謙虚。

 終章は烏丸四条まで歩き、北東角の「三井住友銀行」8階の仏教大学四条サテライトで格安の旨いコーヒータイムとしましょか?  おおきに ③も
平和でなければ194号 
遊びの達人たち
  友人Aは半世紀前、大学の探検部に属していた。滋賀県の三井寺から疎水を部員3人でゴムボートに乗り蹴上まで密かに下った。 舟を川に降ろす時が一番緊張した。真っ黒なトンネルを懐中電灯で先を照らしながら流れに乗る、ほとんど漕ぐ必要はなかった。でも、蹴上に着いたときはさすがに「ほっ」としたようだ。

 その話を聞く度に「なんで誘いがないのだ?」が仲間うちの愚痴だった。まるで「トム・ソーヤの冒険」それは楽しかったでしょう。と全員が賞賛の声 ‼ ?

 この仲間たちと中学生の時、様々な「あそび?」を試みた。土曜日の放課後、学校に集まり作戦を練る。今日のミッションは机の配列をすべて逆にする。黒板が後ろにある。 月曜日の朝、全教室から騒音が聞こえてくる。我々も素知らぬ顔で戻した。そういえば先生のお墓も作った。正に青春のあがき。

友人Bは土曜日に「今日はまともな遊び」と提案。柳池中学は御池の柳馬場にある。出発点はここ、次の押小路まで上る。角に来ると左に曲がり、押小路を西に行く。次の角は堺町通、ここを北に上る。 二条通りにでると再び西に行く。高倉通に出ると北に上る。そして西へ、北へ、どこまで行くと思いますか? という課題、お金はないが時間はある。直ぐに実践する。

 要はお金を使わず、自分で考え、自分で行動して、確認する。仲間内では行動人文学? と呼んでいた。土曜日は私のバイトのない日と記憶する。 メンバーのやさしさ? 全員「柳池中学山岳部員」。

 夏は2泊3日の「北山荘」合宿。5合の米と缶詰3個が食料。毛布か中古シュラフ、懐中電灯、食器が必需品。この頃、「山へ行く」は贅沢の極みだった。顧問の先生は旧三高の「ハイカラ」さん、山に対する夢や希望を話してくれた。深く影響されたのだろう。サントリーの角ビンも経験した。薄い黄色の箱だった?

 麻雀は家族がしていたこともあり、中3になると点数の数え方も一人前「24、48、960、1920、3840」、4人寄れば朝からかき混ぜていた。楽しい中学時代は直ぐに卒業となる。 先6月、3人の達人からZOOM会議の呼びかけがあった。無料アプリの接続を試みるが難しい。1ヶ月試行錯誤が続き、やっと実現。初めての会合は互いの健闘を祝い、まだまだ「遊ぶぞ」と78歳、あの頃の餓鬼達だった。
平和でなければ193号 
朝食の会話
  朝食後、嫁さんが「フルーツゼリーを食べる?」私は「少しなら」「これがあの有名な村上開新堂のゼリーよ」。

何とも言えない優雅な味わい。甘くもなく、酸っぱくもなく絶品だった。まだ、日本にグレープ・フルーツが食卓にのぼる前からこの店はカㇽフォルニアから輸入していた。と説明されていた。
 
米国産オレンジを輪切りにして中身をこれだけうすく綺麗にくりぬけるのか? ジュースにして寒天で固め再び流しこむ、切った上部の蓋には果肉が。正に職人技。昔から知る人ぞ知る洋菓子らしい、池波正太郎も密かに購入していたそうだ。

 私の生まれたのは中京区の麩屋町夷川。公務員の父は小4に母と兄弟姉妹5人を残しあっけなく脳溢血で逝ってしまった。家族の苦難の始まりでした。

 5月は下御霊神社のお祭り、寺町丸太町にある。その頃、寺町通に毎月1日と18日に昼店・夜店が二条まで並んだ。寺町二条東側に「村上開新堂」がある。

 古めかしい洋館のウインドウに飾ってあったものが洋菓子と知る由もなかった。2軒南隣の「焼きいも屋」があった。そこは同級生の店で細長く輪切りにした芋を売っていた。「川越芋」を買うことが出来たのも後年働いてからだった。

 数年前、「京都ぎらい」(作:井上章一)がベストセラーになる。千年の古都のいやらしさを綴ったもの。例えば、山科の住人が京都生まれと言うと「東山がどうして西に見えるの?」と皮肉る。洛中以外は京都ではないとの発想。本当は?

洛中のど真ん中が生家だった母は大工の長女。事あるごとに「御所に一番近いこと」を自慢していた。父が死にそれは腹の足しにもならなかった。母は女手一つで5人を育てくれた。着物やお金になるものがなくなっていった。一時は電話も不通。

 「こんな高そうなんを買った?」「貰って食べるもの!」「誰から?」「Ⅿ島法衣店の大奥さん」妙に納得。「何でくれはったん?」「コーラスの・・・・」・・

 平和でなければ192号
私の地形図
 1昨年、収納スペースにある50数冊のアルバムを思いきって整理する。1冊ずつ内容を点検すると捨てることが難しくなる。もたもたしているとお佐代さん「私が」と言い出した。2~3日してこれだけ「残した」と渡して呉れた。

 クライミングの写真。金毘羅、千石岩、不動岩、蝙蝠谷、芹谷、雪彦山、御在所、小川山、「Ⅵ峯フェ―ス」「源次郎尾根」「チンネ左稜線」、「錫杖岳」、「屏風岩雲稜ルート」、「北岳バットレス」、韓国「仁寿峰」、タイ「プラナン」、「用瀬」、「志津川」等。よく攀じったものだ。継続できたのは多くの良き先輩、仲間とザイルを結べたことと、本当に感謝しています。一番は充実感と生きる自信になったことです。

 アルバムのページをカッターナイフで巧く切り取ってある。あと、3冊ほど残っている。
でもほとんどが焼却されたが未練はなかった。

 気になるのは百十数枚ある国土地理院の地図。ほとんどが2萬5千分の一で5万は30枚ほど、写真より大切にしていた。自分の歩いた記録、京都北山、比良、穂高、剣、立山方面の登山道はサインペンで真っ赤に染まっている。 段ボールで専用の箱を作って保存していた。今は、パソコン上で朱線も記入でき便利な時代だ。本チャンには2萬5千、記録は5萬としていた。

 ごみ箱に捨てるのはごめんだ。どう処分するのかは以前から考えている、バスに乗り目的地まで外の景色を見てるばかりは退屈。地図の行く先だ、これが楽しい「何か?」のヒントになる。

思い起こせば、母親の柩には長男が「読み止しの小説」、「編みさしセーター」。長男の棺には妹が月一で仲間と共に励んでいる般若心経の写経十数枚と好きな酒、焼酎を入れてくれた。これで母、兄も納得しただろう?

 色んな人の葬儀を見ている。わたしも身内、嫁さんだけでいい。火葬にして、遺骨は火葬場で処理、勿論、戒名、墓石なし。これは半世紀前結婚した時に決めていた。白洲次郎、永井荷風、夏目漱石、西行法師に見習う。灰となり土に還る。

 もうお解かりでしょう。私の御朱印は百余枚ある地形図。わたしだけの宝、唯一無二の足跡だ。そうだ、あの残っているコンパスで「三途の川」も探そう。初めてハーネスを付けた時のあの高揚感を思い出しながら。
平和でなければ191号
知ろうとしない現実
この指導者は2009年11月大統領に選ばれた際の会見で「勝者も敗者もない。我々は支配者を選んだのでない。このことをはっきり言おう!」続いて「私は戦士であったため、激しい言葉を使うこともあるだろうが、許して欲しい。さあ、みんな、明日からともに歩もう!」ウㇽグアイ第40代大統領に選ばれたホセ・ムヒカだ。

「私は国民から離れることが出来ませんし、離れようとも思いません。壁をつくることで、国民は政治から離れていきます。もっと良くないことは、国民から政治が嫌われること。そうなると政治は失敗に終わります.

 経済優先の社会で2012年リオで開催された「持続可能な開発会議」でこんな演説をしました。「西洋の富裕社会が持つ傲慢な消費を、世界70~80億の人が出来ると思いますか。私たちは発展するために生まれてきているわけではない、幸せになるためにこの地球にやってきました。人がもっと働くため、もっと売るため“使い捨て社会”をしなければならないのです。悪環境にいるのです。これは紛れもなく政治の問題です」

 「私は貧乏ではない。質素なだけです」さらに「貧乏とは、欲が多すぎて満足できない人のことです。私は持っているもので贅沢に暮らすことが出来ます」「人間のもっとも大事なものが“生きる時間`”だとしたら、この消費社会は、そのもっとも大事なものを奪っているのですよ」「時間であふれることが自由なのです」

「お金があまりに好きな人たちは、政治の世界から出て行ってもらう必要があります。私たちが“世界にお金が足りない”などというのは、お金を出して解決できる人に要求ができず、その人のポケットに手を入れることも出来ない、又そうさせることも出来ない政治的意気地なしだからです。だから私は政治にいるのです!だから政治の世界で戦うのです!」 参加各国から「世界一の貧しい大統領!」と絶賛の声は地球を周回する。 
 
 コロナ対策でやらなければならないのは「国民の命」を守ることで、経済問題ではない。今、そこにいる人々に手を差し伸べなくて、何が政治なのか? どこかの指導者の感性はどこにあるのだろう? 子供やあるまいし「あれしたらあかん、これしたらあかん」と言うだけ。見ようとしない、知ろうとしない現実。正に政治の貧困!

ムヒカのように世界の人々を「うん・・・と言わせることが出来るか」を求められる。コロナウィルス汚染は経験したことのない新たな試練だ。死ぬわけにはいかない!          
その決意が見えない。支配者の目付で官僚作文棒読みはもう「うんざりだ」! 
 平和でなければ190号
洛中の穴場
  今日は烏丸丸太町に集ろう。そして、京都御苑内の拾翠亭(旧五摂家の九条宮家)から始めよう。公開日は木、金、土の午前9時30分。紅葉の頃、階上からの池越しの景色は絶景。
次は裁判所前、丸太町の中央に無人の町「桑原町」がある。昔、菅原道真が太宰府に左遷され、恨みながら亡くなる。その後、都に落雷事故が頻発、末裔桑原家の被害は皆無だった。都人は雷が鳴り始めると「くわばら,くわばら」と唱えた。人は勝手なもの。「カシミール3D」で町を確認して下さい。

更に東へ寺町丸太町上る「同志社新島会館」北隣「新島讓旧邸」も無料。参観の日時はホームページで季節限定です。讓と八重の日常を見よう。

お解かりですね。歩いて発見したこんな京都を見てほしい。夷川堺町にある老舗家具店「宮崎」が運営する「京・指物資料館」(毎水、第3火休)無料、職人の技をじっくりと感じましょう。
 少し東に「京都正ハリストス教会」「生女神福音聖堂」がある。ロシアに行った気分にさせる? 被写体に最高。柳馬場夷川下る。ここも通りから。

 神社と言えば「お稲荷さん」は超満員。姉小路西洞院にある「高松神明社」。何が有名かと言えば「白い鳥居」。天照が天の岩戸に籠る。そこに縄をかけ鳥を鳴かす、大神が出てくるかも? 創建は平安時代。朱色は廃仏稀釈の明治以降のもの。学業・開運で「御利益」もまさる。

 神さんの次はお寺の自動鐘撞き堂。西国三十三ヶ所「頂法寺」。本堂は六角通り北側に、鐘楼は「飛び地」で南側にある。朝夕と正午の梵鐘を自動で、「除夜の鐘」どうなるだろう? 坊さんはどこへ? 新地それとも祇園?

 これだけ歩くとしんどい。私は自転車で移動した。「ちょっとコーヒ-」と行きたい。二条城南側の地下鉄入り口西側を南に下る。右手に数台入れる駐車場がある。奥に「二条小屋」、立ち飲み喫茶。5人も入れば満員。でも美味いコーヒーを飲ませてくれる。 洛中にはまだまだありますよ。 
平和でなければ189号
今(チグム)・高麗(コリヨ)美術館(ミズルウグアン)
  この美術館は3度目の訪問だ。信楽焼き、伊賀、丹波、越前・・・六古窯を巡っていた頃。何かの本で当館の「白磁」を日本民芸の父柳宗悦が賞賛していた。一度見たいと尋ねる。
 北区の堀川通、加茂中前のバス停から1分の住宅街にある小さなギャラリー。向いに所蔵品1700の保管・研究所がある。入場料も格安、2階には参観者の自習スペースもある。ここで読書もするもよし。来客数が少なく、いつも静寂の中にある。購入した白磁のポスターは今も部屋に飾っている。

 一昨年末から昨年、日韓関係が戦後最悪。色々な情報を知り、自分なりに考えてみたいと高麗美術館へ向かう。
 
 創設者の実業家鄭詔文氏が朝鮮半島の日常・日用品、美術・工芸品を在日朝鮮人同朋に民族の誇り・自信を持ってほしい。朝日両国の友好に寄与すると。
鄭氏は生涯、帰国しなかつた。家族・兄妹が南北に住む、北に帰ると日本に戻れない、韓国に行くと北に入国できない分断国家の悲哀。日本人には到底理解ができない。両国の統一しか方法がないのだろうか?

 特別展「石工文化と朝鮮民画」。特に「石工文化」は天空の城マチュピチュの石文化に勝るとも劣らない。民画は日本の版画よりも素朴で親しみの持てる作品。日本にない文化。その国に戦国時代秀吉は何回も攻め入り、明治には併合し文化・言語・姓名を奪う。正に侵略、韓半島の戦後は終わっていない。

 終戦処理の先駆者ドイツに学ぶべきだ。京都市民は豊国神社前の耳塚を忘れてはならない、秀吉は耳・鼻を削ぐ、死者に対する冒涜でもある。

 美術館名は「朝鮮半島の一番安定した平和な高麗国」が由来となっている。結局、両国の話し合いしか方法はない。互いの歴史を知り、相手国の話を聞くことがその第一歩なのだろう。森・加計・花見首相にその度量があるかな?
 平和でなければ188号
誰もかれもの頃
 年齢がさせるのだろう! 小さい頃の思い出が時々相馬灯のように巡る。
お正月に家族が集まるとトランプ、坊主めくり、双六で遊び始める。小3の頃には「百人一首」をしていた。母親は読み手。長男・長女は好敵手。

 上の句「いにしへの・・」と母親が、姉があっと言う間に「けふここのえに・・」をはねる。次男、私、妹はただ見ているばかりだった。

 私も取りたい一心で一首だけ覚えた。なぜか? 「朝ぼらけ有明の月とみるまでに、吉野の里に降れる白雪」。取り札「よしののさとにふれるしらゆき」を自分の前に並べた。それでも兄や姉に取られる。

何回もするうちに「朝ぼらけ」で始まる別の句があることも解った。「・・・・宇治の川霧絶え絶えに、洗われわたる瀬々の網代木」。母親や姉兄がルールを色々教えてくれた。「あそび」好きで直ぐに覚える。

極め付は読み札がこの1字しかない句「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」、(娘房干せ)。「む」は「村雨の露のまだひぬ、真木の葉に・・・」。「す」は「住江の岸に寄る浪・・・」。如何に百首を要領よく暗記するかが勝負の別れ道。

中学に入学すると「小倉百人一首」は藤原定家が選者。古今和歌集、新古今和歌集から選ばれたことも解かった。小野小町、天智天皇、西行法師等有名人が登場して歴史・地理好きの要因になる。

 姉兄弟2人ずつで「源平合戦」をする。向かい合い、50枚ずつ取り札を並べる。相手札を取れば、自陣札を相手に渡す「札送り」。「お手付き」をすると相手札が来る。先に取り札がなくなった方が勝ち。

 正月の遊びも中2になると、姉・兄が社会人となり。我が家の小さな楽しみも自然消滅。公務員の親父は麻雀一辺倒だった。

 平和でなければ187号
漫才シナリオの下書き
  「石黒さん総務から電話ですよ」「おおきに,石黒です」「出してもらった休暇届けを書き直してもらえますか?」「何ですか?」「休暇の理由が柿結婚式と書いてありますが」「姉の結婚式ですけど何か」「柿は木偏でしたね?」「女偏ですよ!」
「石黒さんカラオケ入れましょか」「おおきに、始めは喉ならしに「皆の象」をお願いします」「二曲目は?」、三波春夫の”「半年しゃ土砂降り」をお願いします。「石黒さんそれ「皆の衆」と「あんときゃ土砂降り」と違いますか?」「怒りますよ」「怒らんで、怒りのワイン」「怒りの葡萄でしょ!」

(嘉門達夫の替え歌)
・「お暇なら来てよね。私チョモランマ・・・」
・「泥鰌が出てきてこんにちわ、日清製粉から揚げ粉」
・「まさかり落とした足の上・・・」 
・「貴方が噛んだ小指が取れた・・」・「今はもう動かないおじいちゃん・・」

「石黒電気です。洗濯機を持ってきました」「風呂場の横に取付けて下さい」
「旧い洗濯機を持って帰ってね」「勿論、持って帰ります」「それから電気屋さん!アニマル持って来てくれましたか」「アニマル?」「あとからアニマルの説明お願いします」「飼育の事かな?」「・・・・!」「奥さんそれマニュアルとちがいますか」「それそれ」

(島木譲二の百連発)
 ・しまった、しまった島倉千代子。  ・こまった、こまったコマドリ姉妹。
・ラッキー、クツキー、八代亜紀。 ・ああしろ、こうしろ八代亜紀
・乗ってる、のってる藤原紀香。  ・良かった、良かった吉永小百合。
・解かった、分かった若乃花。   ・参った、参ったマイケルジャクソン。
・待った、待った松田聖子
・ホップ、ステップ、ボブサップ。     ・お前の人生、愛知県。
・悪いことは青森のした・・・・こんな話もう秋田。
平和でなければ186号
今年の書きさし色々 
  昼食はオーガニック野菜、玄米と胚芽米とを半分半分の主食。豆腐を色々調理した副食・味噌汁のメニュー。たまには油っこいものが無性に食べたくなる時がある。20年以上通った店に出かける。現在は2軒残っている。伏見大手筋の「酒粕ラーメン」と左京のラーメン街道にある「新進亭」の味噌ラーメンです。皆さん一度どうぞ。
               「印象に残った本」
 今年は入院したことで読書数は昨年38冊に比べて9冊ほど少ない。EUから離脱が時間の問題となっている英国。「ハリー・ポッターの生まれた国」(黒岩徹)は離脱賛成の人々の心情が多少理解できた。沖縄に寄りそうと評判の「宝島」(真藤順丈)は沖縄の戦前、戦中、戦後を描き、日本のいちばん熱い青春時代があった。友人から勧められた堀田善衛「明月記私抄」は藤原定家の日記を口語化したもの。平安時代の何でもない日常が描かれていた。木皿泉「さざなみのよる」、大阪の女性作家朝井まかて「銀の猫」、「早々不一」も久しぶりの快作だった。

「理系女の姪」(エコ雑誌に?)
毎年夏、姪が京都に来た頃から猛暑が始まる。茹だる様な暑さにも「けろっと」して名古屋に比べたら、たいしたことはないと云う。「京都のおうちが好き」。父は「それ」をいい事に、扇風機は回すが、クーラーのスイッチは押そうともしない。母は父がいなくなるとすぐに24度の低温に設定する。両親の「夏の陣」が始まる。

「今年見た映画」
色んな国の映画を見たい。1月「ロープ」スペイン。2月「女神の見えざる手」米国。3月「運び屋」米国。5月「彼らが本気で編むときは」日本。6月「永い別れ」日本。7月「コスタリカの奇蹟」コスタリカ。8月「笑う故郷」アルゼンチン。9月「フリー・ソロ」米国。「引っ越し大名」日本。「記憶にございません」日本。10月「パリに見いだされたピアニスト」仏国。「怪しい彼女」韓国。11月「家に帰ろう」スペイン。12月「輝ける人生」英国。今年は8ヶ国。

         祝い♡喜寿(77歳)  誰かの祝いの言葉
  40歳までの宣告が喜寿まで来ましたネ! 余生の長い事! 楽しいこと! 
生きてるだけで丸儲けですね!
     これからも、この調子で ゆる   く 生きまひょ 
平和でなければ185号 
荒野の二人展
   この展覧会を見に行きだしたのも散歩の途中だった。富小路姉小路にある老舗の表具屋の職人さん達が住む長屋だそうだ。
何気なく石畳の狭い露地を入る。少し右斜め奥に進むと2軒の平屋がある。巨木の側に日本間の茶室、向かいに洋室。雰囲気は最高。小さな洛中のギャラリー「H₂O」。

一目で気に入る、副題「映画好きイラストレイターによる2人展」。正式名称「荒野の二人展」。
第1回目は「噛めば噛むほど、味の出る」私たちのするめ映画だった。イラストの紹介では「するめ映画選びのススメ」と「ただ好きなだけで見ている映画」。

 なぜか洋画が主軸、①ブーベの恋人(カルディナーレの野生美)②「青春群像」では(これを見た人とおしゃべりしたい)③「会議は踊る」(さくっと軽妙)・・等どんなイラストを想像します? 「そうや! ビデオでも鑑賞できるのや! 」

 第2回目は「レティシア書房」(高倉二条上る)。この本屋さんも面白い本ばかり、店主の独断と偏見の数々が並んでいる。そこに何とも言えないイラストがそっと置かれている。見てみたいと思いませんか? 2年ごとに開催されているようだ。 好評らしかったのか、今回は3回目「新・荒野の二人展」。

 朝野ペコさんは「映画ではたった一つでも好きな部分があればいい」永く見ることでそのシーンが自分の“するめ映画”になることに気づく。自分自身の事でさえ、まだまだ分からないことがある。人生は奥が深いと結ぶ。

 楠木雪野さんは映画に限らず、人生で偏愛出来るものがあれば「何があっても」生きていける。継続することで「何かを感じたり」「何かが見えてくる」。お金や名誉、成功がなくても「肴はあぶったイカでいい」正に「するめ映画のススメ」であると締めくくる。

 ペコ×雪野さんのイラストに添付されたエッセーが個性を発している。彼女等自身の言葉で感じたままがうれしい。見る人、読む人にへつらうこともなく表現している。それがイラスト画と相まって、その癒しが心を打つのだろう。
平和でなければ184号 
フリーソロ
   この映像を見たいと思ったのは1年前、山岳雑誌の小さな記事でした。9月の初めに鑑賞した。どちらかと言えば地味なもので客の入りもどうかと思った。ところが東京五輪の種目に選ばれたことも影響してか? 老若男女様々な人が入っていた。

 岩登りの聖地。米カリホㇽニア・ヨセミテ国立公園。「フリーライダー」(975ⅿ)を滑り止めチョークとシューズだけで登攀する究極のドキュメント映画。
 
圧巻は最後の20分間、主人公アレックス・オノルドと観客が一体となる。我々は手に汗を握りながら墜落しないで完登してほしい。アレックスは難関を越え、当然のように体を運ぶ。最後の台地に乗り込む、自身の中に成功を爆発させる。見る人も安堵と喜びが沸く、劇場全体を覆う。そんな雰囲気でした。
 
2008年、すでにユタ州の最難関ルート・ムーンライトとヨセミテのハーフドームのフリーソロを完成させていた。普通のクライマーは一生の課題でしようか?

 2016年春、ヨセミテには多くのクライマーが怖じ気付くほどの難所がいくつもあった。「ライダー」攻略は正確な地図を作る事。その為、憧れのベテランクライマー2人とロープを結び何回も何回も復習する。
 2016年夏、本場に備え、モロッコの「タギア」でマルチピッチをトレーニングした。記録映画だから当然、撮影される。山岳映画には定評のあるジミー・チン監督は「フリー・ソロは非常に危険、撮ることでクライマーにプレッシャ―を与える! 墜落の瞬間を捉えてしまうかもしれない!」と苦悩を語る。
 2016年秋、再びエル・キャピタンに戻り、練習を開始。実行に移す。撮影隊も細心の注意を払い準備を進める。夜明け前に始まったソロは呆気なく中止された。理由は本人だけが知ることでした。

2017年春、6月3日、アレックスは一人黙々とルートに向かって行く・・・・。「見られることでさらに自信を・ゆるぎない意志を」常人では入り込むことが出来ない正にアスリートの領域だ。人類はここまで進化するのだろうか?
 
さすが、昨年・今年のドキュメント映画部門の英米のみならず世界45ヶ国でグランプリを受賞もしくはノミネートされた作品であることを確信する。
平和でなければ183号 
パチンコ屋さんの今
  北大路タウンから市バスに乗車、千本通を下る。今出川付近でトイレに行きたくなる。邪魔くさかったが人間の営みだから仕方がない。バスの中であのパチンコ屋で用を足そうと思った。
 キング本店はバス停から横断歩道を渡り西側にあった。トイレに向かう。「なな、なんと従前のパチンコ店のトイレではなかった」。当然、男女別 さわやかな音楽も流れ清潔、洗面所も独立していた。温風・冷風の乾燥機も備られている。

 もう少し注意深く観察しようとパチンコ台を見る。足元が広く、座席もゆったりしている。隣の喫煙者の煙が来ないように防護の小さな仕切りが左右にあり、上部のプラズマ空気清浄機から流れた微風がにおい・煙を遮断していた。灰皿の側にスマホ・USBの接続ができるようになっていた。傲岸無恥

 全台ドル箱付き、腕が疲れないような台の位置? 少し甘い香りがして女性に優しい仕様になっているようだ。「ひざ掛け」の貸出。救急箱まで。奥の休憩室にコーヒーカフェー、横にマッサージ機までも。出玉は全てカード決済システム。

 これだけサービスをしても、パチンコ業界は出玉規制・ギャンブル依存症の標的になり、企業倒産の第一位にあげられている。安倍政権与党、公明党、維新の会の数を頼んで「IR法案」の強行採決、大阪「カジノ万博」をまっしぐら。

 つい最近までパチンコは学生の小遣い稼ぎ?の裏技でもあった。現在の大学生や若者にはそんな余裕はない、特に若手労働者は長時間・低賃金でこき使われる。その上、奨学金の事、年金、健康保険、先行きに希望が持てない。その上の少子化。

首相の経済特区も自分の知人に特権を与え、「カジノ」も作る、正に政治の貧困。日銀の「0金利政策」何年も庶民の預金を無利子同然で借りまくる。それで不満なら外債を買え、国を売る愚策だ。日銀の完全怠慢。二人とも傲岸無恥の輩。

 入口の出玉交換場所を、驚いたことは冷凍食品・野菜が交換できる。その上、クーラ―ボックスもついている。念のため駐輪場もみた。何と電動自転車の充電器、電気自動車の充電も、それはいたれりつくせり。「おっと」傘の貸し出しもあった。 
平和でなければ182号 
 めいほうの取説
   誤解のない様に初めから断っておきます。私が「上京明峯労山」に入会して山行や
個人的に付き合った先輩たちからの聞きかじり。「運営委員会」「労山の方針」に逆らうのではありません。念のために。間違いがあるかも!

 D先輩は「めいほう4原則」と呼んでいた? 簡単なことです。①会費を払う ②定時総会、クリーンハイクへの参加 ③「山と仲間」の購入 ④「遭対基金加入」だった。

 「なーんや」 会に入ったら当たり前のことやと思われますが、思い出してください、今年の総会の参加人数。38名だったと報告されています。3分の2以上が出席されていた。4原則が生きている。そうや「登山時報」、「クリーンハイク」も。

 C先輩から例会の感想文を書けと言われた。「山の名前」「コース」「時間」等を事細かに書く。しばらくしてCさんから電話。貴方の書いたのはリーダーや記録係の仕事。例会の貴方自身の感想とのお達し。それぞれの任務を守る。安全で楽しい山を実現する1歩だ。

 Ⅿ先輩からは登山用具は一番最新のもの、特に夏・冬の下着。雨具は命を守る必需品。よく山店に付いてきて貰ったこともある。軽量化にも気を配る。

 比良で積雪時にラッセルと12本爪のアイゼンをつけたピッケルストップの訓練があつた。私は簡易の6本爪のワンタッチのアイゼンを装着して参加。リーダーは直ぐに見つけ練習を止め、見学を指示した。今日の訓練の意味が理解されてない。安全にこのトレーニングを終わるためにも。

 登山靴もサイズをプロに見てもらいきちんと履く、こんなことは当たり前と思うが、
捻挫、骨折の原因は履き方、歩き方が影響する。初心者に案外多い。事故の起因になる。サバイバルゲームは足元が肝心。

 先輩たちの料理の旨さは定評がある。それにもまして安全登山の技術・考え方を
必要以上に実践するのは、優秀な山仲間を2人も失った苦い経験から来ていると密かに思っている。
平和でなければ181号
ビブリオバトル?
   なんでもネット社会、最近の犯罪はすべてSNSが関わっていると言っても過言でない。国の最高責任者の罪悪はあらゆる方面、階層にその影響をもたらしている「権力者は少々悪事はしてもいいんだ」と言う風潮が席巻している。

そんな時、こんなにも知的な手作りの「あそび」が生まれていた、嬉しい驚きだった。大学のみならず、小学生・中学、高校生までも。大会もあるという。

ルールは極めて簡単。①バトラーが今一番好きな本を自分の言葉で5分で紹介。面白さや感銘を受けたことを発表する。②其の後、2~3分質問を受けて理解を深める。
③発表者(バトラー)、観客全員でどの本を「読みたくなったか?」を基準に多数決で
優勝者を決めるという趣向だ。その名も「ビブリオバトル」。

「本を通して人を見る、人を通して本を知る」。且つ「本の中に友達、人生の伴侶を見つける」等、お金もかからない、好きな時間にできる、さらに「勉学に励んでいるようにも見える」とこんなエコで粋なものはない。読み書き。
 善良な民は政事(まつりごと)に「理想卿」や「桃源郷」に重ねる。誰でもいつでも食や勉学、休息、病院がある。それには「平和」でなければ。原発、核兵器、銃は何の必要もない。消費税反対、介護保険の充実、健康保険の改善、低賃金等色々あるが、夢を見られることに幸せを感じる。

 「美しい国」と演説するだけで語らない。「憲法改正」「軍事力拡大」と過去への回帰だけは煽る。理想、慈悲が見られない。個人的な欲望と民には映る。

本の中に自分の理想、夢、憧れ、友、仲間、趣味等何でも実現できる。文字だけで我々を別世界に導く、こんな素晴らしいアイテムを見逃す手はない。

 今、私も「ビブリオバトル」の京都大会? に向けての原稿を考えている? いずれ内容は機関紙に掲載しようと思う。大好きな大衆小説&超新刊小説で?

 ところで「ビブリオ」とはラテン語で本(book)の語源だそうだ。いかにも読書クラブが好みそうなネーミング、何となく私も気に入っている。
 平和でなければ180号  
福祉路線の旅
  東京テレビの「路線バスの旅」は好きな番組だ。高齢者? になると自宅の前から交通機関が欲しい時もある。福祉乗車証は誘因ともなる。

 私の最近の「福祉バスの技」は兄のご機嫌伺いに行く山科へのバスの乗降りだ。単純に2点間を往復するなど人類にとっても、日本文化にとっても不俱載天の敵だ。堀川三条から⑫番の市バスに乗車、河原町四条で下車か、堀川御池から市バス⑮番に乗車、三条京阪下車の二つの方法がある。

 今日はオーソドックスに⑮番三条京阪から出発した。京阪バス停の「山科六地蔵行」に乗車。河原町を南下。河原町四条下る停留所でこの路線最多の乗客がバスを待っている。時間帯にもよるがほぼ満席となる。面白いことはほとんどの乗客が停留所に止まるたびに降りていく。五条通りを東山トンネルから西野、川田道を南下、新十条を東に行く。ライフ前が兄のマンション。1時間弱の行程。

 用事が済むと再び乗車。醍醐センターバス停で下車。2階のカフェーで「バスを待つ間の・・・」(平浩二の歌でありましたね)レスト・タイム。1階の北側バス車庫横から京阪バスの「竹田駅東口行」に、乗り遅れに注意。

このコースは山科地域の観光地、醍醐三宝院・醍醐天皇稜・随心院を経由する。西野、東野から名神の南側を並行して走行する。旧国立病院・中書島を経て地下鉄竹田駅東口にとうちゃこ。お目にかかれない風景に心わくわく。1時間30分の路線バスの旅!

第3コーナーは市バス91番「京都駅行」だ。快速は伏見神社経由で外人観光客で超満員になり、雰囲気も悪い。ここは各停の方をお勧め、30分弱で京都駅前に着く。秀吉の城下を走る代表的バスだ。混雑しそうな路線だが結構スムースに走る。

 4コーナーは⑨番「西賀茂車庫行」、堀川三条まで30分強。3時間余りの旅は終りを告げる? 最近、車窓から景色を楽しむばかりか、乗降り客の1人々のドラマを夢想する技も覚えて、秘かに悦に入っている。次は「八木から新宮までの日本最長の路線バス」。こんな乗り方したらめいほう市バス組に「怒られるかな? 」
 平和でなければ179号  
リクエスト曲
 「では。続いてのリクエストは中京区の18歳の石黒さんの曲です」「If you
Ⅿiss The Train I am On(俺の汽車が見えなかったら、もう行ってしまったんだと思ってくれ、きっと汽笛が聞こえるよ、100・・200・・300・・・500マイル離れても)PPMのコーラス。

初めて、この美しいハーモニーとーメロディーを聞いた。優しい詞はすぐに心の中に侵入した。何を思い出すわけでもないのに泣けてくるのは何故だろう。
アメリカが大不況の時代、「ホーボー」という貧困の季節労働者の歌が何曲かある。その1曲「500マイルも離れて」
自分の名前が紹介される。「何とも言えないこ(・)そ(・)ば(・)さ(・)とうれしさ(・・・・)」の半々だった。
しばらくして2曲目、ギリシャ社会主義運動の内閣で文化大臣に就任した女優、メリナ・メルクーリさんが主演する映画「日曜はダメよ」を希望した。独特のメロディーは誰もが口ずさむことが出来た「タララ・タンタラ・タンタラ・タララ・・」
 
PPMはデビュー時から、全米の公民権運動・反戦の先頭に立ち、特にベトナム反戦で「花はどこへいった」は全世界の平和を願う人々の心を虜にした。
 同時にジョーン・バエズの「勝利を我らに」。ボブディランの「風に吹かれて」の英語の曲がデモの中で普通に謳われた。

正義のための戦いは国籍、言語、人種、年齢、性別に関係なく世界の人々の心をーつにさせる。そして人類の英知は必ず「反原発・核兵器廃絶」運動を加速させるだろう、「銃規制」と合わせて。米国高校生の動きを全世界の人々が注視している。

 我々も日常の狭小な世界から物を見ることばかりでは、新たな発想・感性・創造力は生まれない、変な経験主義で過去の残滓だけを語ることになる。夢や希望に満ちた「ホーボー」となり世界に向かわなければならない。

 ピーター・ポール&マリーはキリスト教の「三聖人」ヤコブ、パウロ、マリアから命名されたともいわれている? トリオは全宇宙の恒久平和を求め「聖者の行進」を始めたのかも。今もなお・・・・。 
平和でなければ178号  
76才からの日舞
 油小路通りは平安時代からある。南北では一番古く、長いそうです。その道から毎晩銭湯に向かう。京都ではええなあと思う町名「風早町」、「天使突抜町」をさらに南下する。五条を渡り、少し東にある名湯「白山湯・六条店」。

 復路は往路を戻る。「いい湯だな」気分で「北へ」帰る(3曲の歌が入っている「わかって下さい」の親父ギャグ)。もう少しで自宅、油小路三条下る。古くからの街並のマンション横の民家、明るい2階が見える。1週間に1回~2回位着物姿の背丈のある女性が踊っているのだろうか?

 20年余前、「Shall We ダンス」と言う映画がありましたね。サラリーマンがいつも駅のホームから見えるダンス教室を眺めている。その窓から街中を見下している女を発見。何となく気になりその部屋を訪ねる。そんな始まりでしたね。

 いくつになってこんな物語はいいですね。私も電動自転車を止めて、良く観察する。大きなガラス窓が南側に開いている。東側に舞台の様なものがあり、美しい女性が動いている。手には扇のようなものを持ちながら、「は・はーん、矢っ張り」想像が的中していた!

 数日後、散歩に出掛ける。堀川三条で信号が赤になったので、東に向かう。油小路を昼間に通ることはほとんどない。件の民家、入口に小袋の中にポストカード,カラーの宣伝誌を見つける。御自由にお持ち帰りくださいだった。

 カードはカラー刷り。日本舞踊「春乃流」教室、新しい自分に出会う体験・見学実施中。「家元が直接個人指導いたします。始める年齢は何歳からでも大丈夫です。舞踊を通して日常の所作、言葉遣い、何より和の心を身につけていただけます」

 宣伝誌には家元春乃櫻香の住所、携帯番号、検索先、そうそう、体験代2000円
と櫻香さんの着物姿で踊る写真、子供たちが映されていた。

 もう少しで75歳からお別れ、最後の「お稽古ごと」に挑戦しようか思案中の今日この頃です。嫁さん曰く 、下心見え見えの顔だそうだ。男は何歳になっても?
平和でなければ177号  
カズオに負けた
  2017年にノーベル文学賞をカズオ・イシグロが授賞した。私にとっても大きい事件でした。それまで、Netで「めいほう・平和でなければ・石黒」で入力すれば一番に検索できた。友人達にもそう連絡していた。

でも、受賞後はカズオ・イシグロの作品や映画、経歴が数えきれないほど連なっていた。勿論、私の物は流星のように消えてしまった。「ま、しゃあないなあ! 」

 カズオの作品はすでにお目にかかっていた。映画サークルで上映されたイギリス映画「わたしを離さないで」。隔絶した寄宿舎に子供を収容、人工移植を行う教育をするという恐ろしいものだった。その後、「日の名残り」も直ぐにみた。
でも、小説は一度も読んだことがなかった。これを機会に読書に取りかかろう。

 映像の2作品は人間の深層を覗くどちらも問題作だった。其の未来を見据えた視点は「すごい」の一言に尽きる。でも、暗い印象が残ったのは私だけの想いか? 小説は楽しそうなものがないかを探した。「ありました、ありました」

 音楽と夕暮れを巡る5つの物語「夜想曲集」。第1話「老歌手(Crooner)」でこの
作家の偉大さが少し理解できた。筋書の面白さ、それを語る様々な言葉、過去の伝統?を壊す筆技、読者を「なるほど」と思わす筆力が余すところなく散りばめられていた。さすがノーベル賞作家だ。

 老歌手の恋人はロスアンゼルス郊外のドッグカフェで大物俳優、大物歌手との出合いを最高のメイク、スタイル、ドレスで待ち続ける数多くの女性たちの1人だった。カフェの女店主もかつてはそんな女でした。
夢を捨てた主の経験や話す言葉は彼女たちのハーバードであり、エールだった。カズオはそんな女性たちに差別の目を向けることもなく人間の尊厳を綴っていく。恋人は次の大物を求め歩み始め、老歌手も新たな恋人と共に未来に向かう。まあこんな短編だった。

到底、私はこんな素晴らしい物語を書くことはできない。せめて「めいほう山岳会」の会報で夢や希望を与えられるように多くの本、芝居、映画を見て乏しい感性を鍛えようと思う。ロンドンで暮らす親戚? に学んで。
平和でなければ176号 
昔々々「黒部日電歩道」
  吉村昭の「高熱隧道」を読んだのは18歳の頃、黒部第三発電所の建設の苦労を描いたもの。「日電歩道」、「泡雪崩」が強烈に印象に残る。峡谷の雪崩は建設現場事務所を対岸の岩壁まで吹き飛ばした。風圧は音速を越えていた。

 初めての剣は会社の同僚と3人。1968年8月半世紀前。山頂からご来光を拝み、剣沢を下り、仙人池で1泊。裏剣を眺め、阿曽原大休止、日電歩道を欅平に向かった。長い、長い、長い水平道だった。「厭にも嫌いにも」ならなかった。その圧倒的な峡谷美は「血沸き胸踊り」、再び尋ねたいと思った。

 二回目は1973年8月、金融・証券・生保で作った「金融ワンゲル」の夏の合宿。コースは山頂から源次郎雪渓左俣を下る。参加者に初心者がいて危険な山行だった。
何とか全員(35名)が無事に仙人池までたどりつけた。更に水平道は、小人数とは異なり、欅平着は日が沈む寸前。疲れを名剣温泉で癒した。

 三回目1986年44歳、「めいほう」に入会した翌年だった。登山バスで同じグループの仲間と出かけた。黒四ダムから白竜峡・下の廊下を経由,十字峡からS字峡、阿曽原小屋で1泊、「水平道」を欅平に向った。10月半ば紅葉は終り、静寂の黒部だった。
 カメラを持参したリーダーは志合谷付近で5人を先に歩かせた。廻りこんだ対岸から1枚の写真を撮る。岩壁の際を歩く私たちだった。その5人も皆、「めいほう」から去ってしまう。

 1988年8月、Hさん夫婦と4人の仲間と登ったチンネ左稜線。難しいと言われたハングの核心も一歩足を上げると大きなホールド。難なく乗っ越すことが出来た。頂きで仲間と交わしたぬくもりが今も手の中に残っている。

 下山中、剣山荘まで来てHさん「欅平まで歩かない?」と言われた。4回目のチャンスが来たと思った。リーダーの誘いだから誰も参加するとの想いは「NO」のつれない?返事だった。私もそんな雰囲気にのまれた。情け無いのう!
 
パソコンの上の黒部日電歩道の写真を見ると、リーダーに付いて行けば! 4度目の機会を逸した無念がよみがえる。血気盛んな頃だった。「日電歩道」最高ですよ。
 平和でなければ175号
「来し方行く末」
  一昨年後半、テレ朝の昼ドラ「やすらぎの郷」(脚本 倉本聰)と「トットちゃん」が他社を圧倒した。特に倉本さんはドラマが始まる前に130回分の脚本を用意していた。さすが大御所だ。終活の作品とも。

「北の国から」は北海道を舞台に、田中邦衛、吉岡秀隆、中島朋子他が出演して、家族成長の物語。毎週金曜日は楽しみだった。そして20数年近く続いた。さらに、舞台となった富良野はあこがれの地となり、劇作家養成学校も創設される。

倉本さんに学び、「来し方行く末を」を進めました。平穏な日々が平和であるとの思いから2005年7月から始めた投稿、昨年5月で167号。当面の目標200号まであと33回分。書きためたものを含め185号まで。あと、15回分。これなら何とかなる。2年、3年と考えると自信がない

最初の頃は、「私が、私が」だった。50回を過ぎたころから楽しくなってくる。自然に「私も」となってきた。加えて,100回を過ぎる頃には、書くコツが見えてきた。単純なこと「なぜ」継続したの? 書き上げたものを読んで欲しい! 主人公は読み手、題目や書き方を工夫することになる。普段の会話調、押し付けや気取った言い回しでない平易な文が好まれることも。

関西のシナリオ学校(心斎橋大学)の先生が「自分で作り上げた原稿を何回もいやになるほど読みかえせ、誤字、脱字を含めて何か感じるものが出てくる。推敲を繰り返せ」の言葉が最近やっと理解できるようになる。小説らしきものも時々浮かんでくるのを感じら
れる。

大切にしていること①「めいほう」山岳会があること、機関誌を500回近く出し続けていること、貴重な掲載スペースを預かっていること? ②山狂いが大勢いること、機関誌を手にした時、一番に読むんですよと言ってくれる山仲間もいること。

これからも山と同じく非日常を求めて、映画、本、芝居、音楽、落語会、散歩、美味しい物、旅など夢を追いかけようと思う。楽しい事・心に残る事があれば「そっと」教えてください。機関誌のアクセル・ブレーキの「遊び」役になれるよう精進していきたいと思います。 「やすらぎの郷」の続編が新年から始まるとの「うわさ」も。
 平和でなければ174号
「ラ・カンパネラ」
 「カンパネラ」と「禁じられた遊び」がにていると思った、急に音階や音程に興味がわいてきた。生意気に立証するため調べてみる。パソコンから楽譜を取り出した。

 「禁じら・・」はハ長調、「カンパ・・」はシャープ5個。中学の授業で習った知識から「ト・二・イ・ホ・ロ・へ」だからシャープ5個はロ長調。解説では嬰ト短調と記していた。嬰ト短調なんのこっちゃ?

 長調と短調の関係を見る。中国語では♯を嬰(えい)、♭を変(へん)と読む。
♯5は長調ではロ長調、短調では嬰ト短調と決まっていた。ハ長調の短調はイ短調。♭2は変ロ長調、短調はト短調。楽譜ではわからない。演奏して明るいのが長調、暗い曲が短調。
解かったようでわからない。ややこしいので今日はこのへんでPCを閉じた。 

数日後、再度、長短関係をみた。ピアノの鍵盤で解説するものが多い、音がないので実感がない? 「キーボードがいるなあ」高齢者性頑固症が疼く。別の自分が「そこまでしんでもよいのに」とささやく。

指先はすでに「アマゾン」と打ち込んでいた。正価では7980円を2750円、翌日には宅急便で届いた。子供用ミニキーボード36k。右人指でドレミを鳴らした。正にピアノの音だった。

 こうなると? 小難しい理屈はどうでも良くなって、両手で何か弾きたいなってくる。両指先はそんなに上手く動かせるわけはない。左手の小指で「ド」、親指「ソ」、中指で「ミ」、もう一度、親指で「ソ」、とハ調の和音? 「ド、ソ、ミ、ソ」とひたすら繰り返した。毎日朝夕10分間キーボ―ドに取り組んだ。

 その間、右指先も遊んでいたわけではない。中指で「ミ」、薬指で「レ」、親指で「ド」。「ミ、レ、ド、ミ、レ、ド、ド、ラ・・・」と指先を動かした。「スワニー河」の1小節目だった。
 あれから180日、何とかこの曲をメロデイー・伴奏ともに両手でこなせるようになる。テンポはなかなか上がらないが、もうすぐ歌いながらの日も近い? 
平和でなければ173号 
又吉の2作目「劇場」
 又吉直樹の二冊目を読んだ。正確にいえば四冊目、①「火花」②「劇場」③「第三図書係補佐」④「東京暮色」。③はどちらかと言えば、作者が過去に読破した本の紹介だ。でも幅広い分野、驚くのはその読書数だ。今もそれは続いているという。

 「劇場」はどの新聞の書評も好意的なものだった。それに感化されたわけではない、人間が持つ「情けなさや」、「醜さ」を星のようにちりばめながら美しい恋愛小説に仕上げていた。

プロローグ。小劇団の劇作家永田は稼ぎがほとんどないため、学生で女優志望の恋人に食わせてもらっている。沙希との出会いは何とも変てこりんなものだった。
 
「手つないでって言うたら明日も覚えてる?」「うん? どうゆうこと?」「明日、忘れてくれてんねやったら手つなぎと思って」「手をつなぐことを恥ずかしいと思ってる人、永くんだけだよ」沙希の手はとても温かかった。
 彼女が目を開ける。「永くん、なんで不思議そうにしてんの? 自分でつなぎたいって言ったでしょう?」「まだ迷っててんけど」僕がそう言うと沙希は笑いながら、「本当によく生きて来れたよね」と言った。

今日も、下宿までの街並みを徘徊の如くさまよう。その風景の描写は日本語にこんなたくさんの美しい言葉、語彙があったのか!短い距離100メートルに満たない空間を次から次へとあふれるような調べが続いた。

又吉が芥川賞をもらった頃、同じ関西出身百田尚樹が「海賊と呼ばれた男」で本屋大賞を受賞した。表彰式で「この賞が芥川賞・直木賞よりうえだ」。その後、NHK経営委員での超右翼的発言。それに引き換え又吉の謙虚な挨拶は輝いていた。
 
 終章、危なげな2人の関係は他劇団のシナリオの出版で終わりを予感させる。「永くん」のたぐいまれな才能を見抜いていた沙希との別れが迫っている。

 この小説を読まなくても、それぞれが変わるでもない。でも、日本語の素晴らしさを飾ることもなく伝えてくれる。その源が作者の読書の数々とすると、この本のページを開くのも一考だ。
平和でなければ172号 
山岳救助隊からの電話
  「石黒さんのお宅ですか?こちら長野県警山岳救助隊です。徹さんおられますか?」「今、会社に行っていますが!」「それは良かったです」「徹さん名義の健康保健証が見つかりました」「何処ですか?」「北アルプスで」「ザックが風雨にさらされバラバラに散乱して、ビニール袋に入れてある保険証が見つかったのです」。

 1985年7月20日~24日。表銀座コース(燕岳~大天井~槍岳)に夫婦で向かう。下山は岐阜県側に下る
1日目、中房温泉(7:00)合戦小屋(9;40)燕山荘(11:20)大天井荘(15:20)(泊)
2日目、大天井荘(6:20)西岳(8:30)水俣乗越・大天井ヒュッテ(9:40)ヒュッテ大槍(11;35)槍岳山荘(12:05)槍岳山頂(13:00)槍岳山荘〈泊〉
3日目 槍岳山荘(6:35)槍平小屋(9:20)白出沢(1130)穂高岳避難小屋(12:30) 新穂高(14:30)〈泊〉

 事故あったのは2日目だった。水俣乗越を通過。ここまでは上出来の行程だった。少し安心感があったので休憩をした。山側の岩の傍にザックを置く。嫁さんは何気にサブザックを谷側の外傾した所に、直ぐにガレを転がりはじめ約50~60メートルも下だった。

 はじめは取りに行こうかと思ったが、「何が入ってた?」「着替えと小銭、保険証・非常パック」「危ないし止めとこ!」と喜作新道を先に進んだ。大槍ヒュッテで休憩、小屋の人が「夕立が来ますから30分位は居てください!」直ぐに本降りとなる。「ザック取りに行かんとよかったな」「我々にしては良い判断だった」

「ところでお金はどこに入れた?」「体に巻き付けています」「海外旅行と違うで」と大笑い、「ホンマはガレ場を降るのが怖かったんや!」小屋番が怪訝な顔をしてこちらを見た。

 「とりあえず石黒さんの健康保険証とその他もこちらで処分させてもらいます。今後も気を付けて山行を続けてください」。「めいほう」に入る前年、秋口の電話だった。
 平和でなければ171号
香魚の年
  宇治に住む小学校の同級生、5月の半ばだったかな? すくいたての小鮎を運んでくれた。勿論、半分飴炊きに、残りは天ぷらにして2日にわたりお腹へ納める。

 6月初旬、宅急便のお兄ちゃん。私の顔を見ると、直ぐに冷凍庫に入れてくださいと言う。関東の友人がクール宅急便で送ってきてくれる。
 今年の釣果は素晴らしそうだ。食べごろの大きさが2匹ずつ冷凍にしてある。5パックだった。直ぐにお礼の電話を入れる。「この歳になっても釣りができることに感謝していると!」受話器の向こうから元気な声。

 「今年はどこの川?」「神奈川の桂川、相模湖から流れ出る川で鮎では有名」「昨年は福井の九頭竜川だったねえ」「その前は宮崎県の大淀川だった? 高知の川?」と話しながら夕食に2匹をだべている自分を想像していた。

 あたり年のクライマックスはなんといっても初参加の「鮎祭り」だった。専用送迎車?A木号に乗車、他の山仲間と一緒に開催会場の花脊に向かう。不安と期待でドキドキの私、でもAさん夫婦の軽やかなしゃべくりは心のうちを見通していたのだろうか。あっと言う間に「花折山荘」にとうちゃこ。

 驚き、桃の木、山椒の木。山荘のベランダには川魚屋さんに置いてあるより上等な鮎焼きのコンロ。すでに、何本かの串刺しからうまいにおいが漂ってくる。
 
串を指すY井さん、炭火を調節する若い会員さん? 友釣りの師匠、お酒を飲むÙ田さん、Hさん。私はその横に座り、みなさんの手付きを見ていた。段取りの良さは玄人はだし! さすが伝統の「夏祭り」だ。

 なんぼ旬の味といえ2匹も食するとお腹は「ごちそうさん」と言う。真夏とはいえ、火の傍はいいもんだ。楽しいお話、帰るまでその席を温め続けていた。

 いよいよ日帰り組の御帰還の時、H夫人が土産にと大きめを二匹包んでくれる。そうそう、私も堀川三条の「米満」菓舗で釣り上げた「若鮎」を少し持参しました。「焼き目はどう?」 あれからもう1年、早いですね。
 平和でなければ170号
「見えない人々」の世界
  世界の映画祭の受賞作品選考基準に変化がみられる。其の最たる証がカンヌ国際映画祭でパルムドールに選ばれた「万引き家族」だ。

 審査委員長を任されたケイト・ブランシエットさんは今まで世界からも歴史からも無視され続けた人々(invisble people)に光を当てた。そして、そんな人々をどう
発見し、描くことが出来るかが映画の創造性だろうと。

 ヨーロッパでは多数の難民を受け入れている。「難民三部作」が映画化されている。最新作はフインランド制作の「希望のかなたに」でシリア難民を描いていた。ナイジェリア難民は「初めてのおもてなし」ドイツが。ソマリア難民はスエーデン作「ナイス・ピープル」。正に無視され続けた人々を主人公にしていた。

 英題「shoplifters」(万引き家族)の是枝監督は記者から制作動機は?と聞かれ「年金詐欺を働いたり、親が子供に万引きをさせると社会からすごいバッシングを受ける。もっと悪いことをしている人が山ほどいるのにそれをスル―している。そんな怒りからですかね」。

 受賞を文科大臣が祝意すると監督は「かって映画が【国益】や【国策】と一体化して大きな不幸を招いた過去の反省にたつなら、公権力(それが保守でも、リベラルでも)とは潔く距離を保つのが正しい振る舞いではないかと考えています」と辞退した。

 ファ―ストシーンから見る人をくぎ付けにする。息をのむドキュメントタッチの進行。血縁関係ない家族?が「万引き」をすることで絆を育む。しかし、ある事件からこの家族が崩壊する。万引きの「悪」に気づくのは年少2人の子供たちだった。

 前作、「誰も知らない」では親に捨てられた4人の子供たちが必死で一緒に暮らし、一緒に生きようとします。この家族?こそが本当の家族ではないのかと! 

 映画を見終わると、生きるとは、本当の事とは、食べる事、働く事、それこそ「家族」とは、仲間とは、親とは、結婚とかを考える事が頭の中で回転し始めた。翌日になっても、その動きは止まらなかった。今、世界が求める作品ではないだろうか。
平和でなければ169号
ラ・カンパネラ 
    最近、若い時にわかれば「もっと」楽しめたと思う事が多々ある。先日も、若手?ピアニストのソロを聴きいった。そのテクニックは最初から聴衆を釘づけにしていた。最後の選曲はリスト「ラ・カンパネラ」だった。

 今までどうして気づかなかったのだろう?この第1音とこのリズム? どこかで聴いたと思った。「タン、タン、タン、タタ-ン、タ・・・・」と高音で繰り返す。文字で表して、その曲を考えてみた?数回聞くと「禁じられた遊び」の最初の小節だった。

 昨年、能登「演劇堂」の途次、友人たちと金沢の町を散策した。武家屋敷跡はさすが前田百万石の城下だった。香林坊から兼六園に向かう。私は歩き疲れて21世紀美術館前で待つことにする。何でもいいからコーヒが欲しかった。

 その喫茶店で直ぐにホットコーヒを注文する。自前の砂糖を入れ一口啜る。甘さと香り、苦みが混在していて何とか落ち着く。常連さんらしい数人の声が聞こえる。昼食の話をしている。かすかに「BGM」が流れてきた。「ん・・・・・」

 確かめるため耳をそば立てる。「あの曲かな?」直ぐに店主の女性に尋ねる。「あの音楽は?」「地元の有線放送です」「ラ・カンパネラと違いますか?」

 その女性はすぐに有線の放送の小さな窓口をみた。曲名が見えたのか? 「お客さんすごいですね。確かにラ・カンパネラです」「いやー、先週に何回も聞いたところなんです」褒めてもらえて気分がよくなり、アメリカンをもう1杯注文する。

 「挽きたてですから美味しいと思いますよ?」「いい雰囲気の店ですね!」「ありがとうございます」「元駐日大使だったケネディー、それから五木先生もふらっと来られました」その話し方は自然体だった。

 金沢の女は「今日の事は機会があれば紹介しようと思います」と笑顔いっぱいに話してくれた。コミニュティー誌の編集長。
 
喫茶「エムおあしす」の窓から友人たちの姿が見えた。2杯分のコーヒ代を払い、五木寛之が押して出たドアーを静かに引いた。 
 平和でなければ168号
エドワード・ヤンの世界
  こんな監督が存在したのも知らなかった。映画が好きと言ってもまだまだである。その1作、「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」(英題:A Brighter Summer Day)は映写時間236分の大作だった。

 何故、英語表記かと、自分なりに「輝ける夏の日」と訳していた。何となくそのほうが、でも映画は違っていた。日本名「牯嶺街少年殺人事件」がぴったりするのでは?

ヤン監督の映画作りは愛情にあふれている。当時(1960年頃)の台北では不良グループ同士の諍い、殴り合い、殺人が頻発する。

何時も、雨天・闇夜・雷鳴・停電のわずかな光の中で犯行が行われ、見る人に不快な気持ちを与えることなく物語は進行する。

その争いには日本軍が残した軍刀、短刀、拳銃が使用されたていた。日本はその国の文化を破壊しただけでなく、台湾に住む人々の傷跡に荒塩をすり込んだ。語っていないのに伝わる。素晴らしい演出に圧倒される。

あらゆる世界に住む若者たちが向きあう、出口のない社会の矛盾は、親とは別に歯を食いしばり仲間との友情、恋人との愛情に求めるしかなかった。 

 夜間中学で主人公が問題を起こす度に、父親は姉兄弟に未来はお前たちが切り開くためにある。我慢することなく希望を持ってほしい我々の時代とは違うと話した。それは監督自身のメッセージだった。
 
 楊徳昌(中国名)監督は60歳で夭折。7本の映画を製作する。44歳、脂の乗り切ったときにこの作品を世に出す。ファーストシーンからエンドロールまで観客をトイレにも行かせない時間を与えてくれた。その上、的を外さない品格を持っていた。
まさに「A Brighter Summer Day」がふさわしい題名だった。
 
あきらめるなアジアの人民たち、楊監督の声が聞こえてきそう!それは現在の沖縄の状況とも類似する。半世紀前の占領された時と少しも変わらない。ここはどこの国?米国、台湾、日本、琉球国?
平和でなければ167号 
勝手に42周年記念誌
 何年か前は、静原の山小屋で「明峯祭」があった。実行委員手づくりの料理を平らげ、浴びるほど酒も食らった。仲間の芸もみせて貰った。明日は隣の金比羅で練習だ。いつのまにか夢世界に進んでいた。
時々、目が覚めた。まだ宴会継続中。持ち込んだ酒を全て飲むという猛者もいた。先輩Hさんの歌声が聞こえてくる。一番好きな山の歌。

「俺の思いはよ、穂高の山々よ、はやる心はよ、針の木五竜だよ」「いつか2人でよ、峰々越えてよ、語り合うのはよ、2人の幸をばだよ」「白馬くだればよ、蓮華がみえるよ、思い出すのはよ、あの娘のえくぼだよ」「遥か連山に、雪煙上ればよ、思い出すのはよ、信濃恋歌だよ」
  
山への憧憬、恋もロマンも掻き立ててくれた。

剣岳Cフェースを登った。初めての本ちゃんで緊張していた。先輩Sさんのリードでザイルを伸ばす。剣稜会ルートの核心部は「お前の番だ!」なんとかトラバースをこなした。
あと、どこを登ったのも思い出せない。真砂沢の幕営地はおおいに賑わい、夕食をすまし寝袋に入る。突然の手拍子に目を覚ます。
テントの小窓から正面の石舞台の上で全裸の学生たちが団扇片手にラインダンスを踊っていた。     

山は学生・社会人で花盛り、私も一員だった?
 
平和でなければ166号 
城の崎はぎゅう?
 みなさん、こんな歌を聞いたことあります。「やまむらやってなんの店♫♫」「バーベキュウやお肉の専門店♪♪」「やまむらやぎゅう!」。京都の映画館でこのCMをぜひ一度見てね。

駅で山組と別れた。午前10時、天気は薄曇り、駅前で金髪が「城崎ロープウェイーで山頂から当地と円山川、日本海を見られては?」さらに「無料で送りますよ!」「決めた!」ここも外人観光客が多く。川の大きさを目に焼き付け足早に下った。

温泉街を散策する、革製品店が目に付く、「豊岡鞄」。店頭で若い職人さんが皮を加工していた。40年間愛用のコードバンの小銭入れを出し「修繕できますか?」「この縫い方は駒縫い、出来る職人が少ないので、嫌がりますよ」。

 「京都駅前の馬具店「明石屋」でしてくれるかも?」「ところで何時に城崎を出発されますか?」「夕方です」「預からしてもらえば修復しますが」という。値段も聞かないで「お願いします」住所と電話番号、名前を書いて別れた。

早朝からの長旅で、超すき腹。1軒目は津居山漁港のとれとれ丼。並ぼうとする、すでに10数人の行列。牛すじうどん・丼。食している若者に味を?「・・・・」。直ぐに3軒目を探す。日差しが強くなり、何でもとなりかけたその時・・・。

私「20食限定カツレツ定食」と嫁「ふわふわオムライスハヤシソースかけ」だった。値がはるがそれに決める。限定ものはほんまに食べたことがないお肉の味。
ハヤシかけもたくさんの肉入り・肉汁ソースが得も言われない美味しさ。極めつけは食後のコーヒの抜群の苦み。何から何までグーの店「MIKUNI」でした。

帰り際、Y井さんに鞄店によって貰う。主が小銭入れを見せ「こんなんでいいですか」一目で素晴らしい再生。「お幾らですか」「お金はいりません、写真を撮らせてください」そして「大切に使ってくださいね」だった。胸が・・・

最後に「城崎・来日岳温泉付」の仲間には2カ所の温泉に入ったことにしていました。ここに1回も入浴しなかったことを白状します。やっぱり「城の崎は牛」。

 平和でなければ165号
コピ・ルアック?
 カフェ「セバーグ」は映画好きが多い。カンヌ映画祭に無料で出かけた猛者がいる。30代、映画の知識は過去から最近のものまで微に入り、細に入り披露する。カンヌの懸賞論文で見事優勝する。コートダジュールの赤じゅうたんを見ることが出来たと淡々と話した。

春、中国人らしい女性が来店。台湾の巨匠監督のポスターが目に付いた。伝説の傑作が25年ぶりに公開される。
「牯嶺街少年殺人事件」(監督エドワード・ヤン)。1991~2年のアジアの映画祭の賞を独占した。3時間56分版でよみがえる。(私も昨年、8月24日に挑戦した みなみ会館)

 台湾で制作した作品が映画好きの集まる喫茶店に掲示してある。笑顔でうれしいと片言の日本語を駆使して話す。その上、監督没10年の記念になると誇らしそうだった。女性は現役の音楽部門担当の映画人。

 先日、特等席?でコーヒを飲んでいた。同世代の男が、「コピ・ルアックありますか?」「置いてません」「京都の販売店知りませんか?」「ネットで調べてください」。その客はがっかりして帰っていった。

 早速、「コピ・ルアック」て?と質問するのを予想して、棚から3つの袋を持ってくる。バリ島のジャコウネコの糞から出たコーヒの実。2つ目の袋は洗浄して乾燥さしたもの。3つ目がそれを焙煎した粉だった。

 当然、「おいしいのですか?」「値段の割には・・ダメですね」「マニアでは1杯1800円」「そんなにするんですか!」台湾、中国、韓国、日本と限られている。さらに、象の物はもっと高価なんですよと付け加えた。
 
今、カフェ「セバーグ」は私にとって最新の映画情報、「コーヒ」の話題を入手できる店になっている。
 
カンヌの若者はイラン映画「セールスマン」の一画面を、あの部屋が写った時、本棚に政府指定発禁本が「チラッ」と映っていた。映像の見方はまさにプロの域。でも彼は会社員を守っている..しょせん趣味や嗜好の範疇と話を終えた
平和でなければ164号 
さすが日本の銭湯
 月曜日は鶴瓶の「家族に乾杯」、その後BS「日本の歌」を見て銭湯に出掛ける。この日は軍歌が多かったので直ぐに行くことにする。

 いつもの場所で頭から、顔そり、全体を洗う。が私の流儀だ。特に髭そりが上手く仕上がると風呂に入った感100%だ。どこからも出血せず、完璧のそり心地だった。後は湯船に短時間入るのみだ。

 私の横に座る若い常連さんの動きが変だった。脱衣場の方に行ったかと思うと、又引き返し、自分のいた洗い場で何かを探している。それが終わると湯船に入り、足で探ぐるようだった。水風呂、サウナにも行く。それを2回?ほど繰り返す?

 私は思わず「何か探してはりますか?」と聞く。「えー、指輪です。結婚指輪なんです」
「そら大変や」と私も湯船に入り、足で浴槽の底を探った。

「嫁が怒るのでどうしても見つけなければ!」と再び水風呂のほうに向かう。そのうち知り合いの青年の二人が入ってきた。「あの人が指輪を無くした。手伝ってあげて」とお願いする。湯につかりすぎたので後は若者に任せた。

そういえば私も東京に出帳の時、新幹線の中、金属アレルギーで痒くなり、洗面所で指輪をはずし、手を洗う。そのまま席に戻る。直ぐに気が付き引き返したがもうそこにはなかった。

でも、うちの場合は、2人共指輪をする習慣がなかったことで何事もなかった。結婚式場側の策略に乗ってしまったことを反省した。

銭湯の指輪は気になっていたので翌日に出かけた。番台で女主人に聞く、なんと、その日の脱衣場の洗面場に置いてあったという。皆であれだけ探したのに!しかも誰が置いたかわからないというのだ。

数日後、忘れ物は?あの探していた若者の指に無事かえった。さらに夫婦で手土産を持参してお礼に見えられたという。さすが日本だ。こんな安心な国はない。「平和な国」のほんの一コマなんだ。
平和でなければ163号
笠形山温泉考 
 37℃の心地よい低温泉、入浴後うとうとまどろむ、夢の中に「笠形温泉の契り」(1幕3場)が現れた。 
 
「出会いの湯」        野天風呂の場
出演者 姉小路の鉄(市川雷蔵)、瀧野の伝三(中村錦之助)、加古川の政(勝新太郎)
姉小路の鉄 「御一統さん、おさきに裸で前を失礼しますよ」
 加古川の政 「お若けいのお待ちなせい」「私もすぐに上がるからもう少し湯にいなせい」 (鉄、湯船から上がりかけたがそのままつかる)
瀧野の伝三 「お前さん、たしか上方生まれと言いなすったね」
姉小路の鉄 「へい、京の都の片田舎でござんす」
加古川の政 「ところでお前さん、どうしてこんなひなびた温泉にいるんでい」
姉小路の鉄 「・・・・・」(鉄 頭に載せた手拭を絞りなおす)
加古川の政 「ひよっとして都で何か不義理でもありやしたかい?」
瀧野の伝三 「せっかく、気分の良い温泉に入った仲じゃござんせんか?」
「遠慮なくいってみなせいその胸のうちを・・・」
 
とこれから芝居が佳境に入ろうとした矢先、クーラーの冷気で目を覚ます。

 笠形山組と別れたのが午前9時15分頃、天然温泉「せせらぎの湯」の駐車場だった。萱吹きの待合は風透しもよく、快適で開場まで読書もできた。
 露天風呂は42度の温泉、37度の低温泉。東屋風の長方形、円形が仲良く並んでいた。背景は自然林が続く山と森。絶景!
 
1時間ほど低温泉につかり、「せせらぎ亭」の名物のそばと丼を頼む。ほどなく野天風呂で出会った竜野の塗装会社の社長、加古川の公務員の2人が加わる。政治から経済、趣味、家庭、孫の話と目まぐるしく変わる。食後のコーヒをとる、皆さん少し落ち着いたようだ。
 
そんな出合いが「夢芝居」のきっかけになったのだろうか。次の温泉山行で「つづき」を是非、見たいものでござんす。
 平和でなければ162号
今年の書きさし色々
                「元日の朝日」
新年初めての新聞、「何gあったと思います?」「でも今年の重さは異常だった、驚きの重さ!」「どこかおかしい」新聞は重さじゃない?内容だろう!

「最後の秘境・東京芸大」
ひさしぶりに親元の近くの下御霊さんの夜店に出掛けた。お参りをすまし古本屋を覗く。裸電球の下で、読みたかった「最後の秘境・東京芸大」(作者二宮敦人)が私を見ていた。半値だった、すぐ支払いをすます。「はよ帰って読も!」
            
映画「ニツポンの嘘」をみて
 映画センター(労映)、労演に入会して半世紀を過ぎる。若い頃はただ見ていたような気がする。この年になりやっと色々な事を自分で考え、創造できるようになる。そのことが一番なことだと気が付く。先月の例会は「ニツポンの嘘」。

90歳の報道写真家福島菊次郎さんのお話。「報道したい問題自体が法を犯したものであれば、カメラマンも犯しても構わないし、そんな状況を発表するのは必要なわけです。映像に関わる分野を担当しているカメラマンとして写すべきなんです」報道、言論の自由は何かと言う原点を考えさせる一幅の「絵画」であった。

「オバマ演説集」
先日、いつもの書店で勘定をすませた。ふと横を見ると「オバマ演説集」が平積みされていた。ペラペラとめくると読みやすそうだった。表紙に生声CDと対話つきと書かれてある。早速、新たらし物好きの心を占めた。あの大統領との違いを!

新春ドラマ「富士ファミリー」の感想
長女鷹子(薬師丸ひろ子)のこんなセリフで始まった。家出してきたお手伝いさんに「大丈夫でないときは、大丈夫でないと云うんですよ」。これはどこかで聞いたことがありますね。学校や企業の中での「いじめ」家族や先生・上司・友達から発せられるせりふ。ドラマではちゃんと生かされていた。

 木皿泉のシナリオは「家族とは、生きるとは」を作者の遊び心で見る人を「ほっこり」させ、感動と勇気を与え、明日から歩き始めさせる?さすが旬の作家さんだ。
平和でなければ161号 
一杯の思い出②
  亡くなった孫海斗は幼稚園の年少組から始めたサッカー。FWでポイントゲッターだった。病状の進行にチームに迷惑をかけてはとキッパリとサッカーを断念した。

 中学校に入ると。我々の心配をものともせず、ある日、大きな荷物を持ち帰宅した。「春から吹奏楽部に入部、チユーバを練習している」と話した。

 小さな、小さな体で大きな、大きな決断、潔さと何時も前向きな姿勢、今思い出しても涙がにじむ。こんな海斗に兄も弟も励まされていたに違いない。

弟は卒業式の前日、遺品として残された携帯を使い、ともに練習に励んだサッカー仲間全員に「今までありがとう、さようなら」とメールを送った。
 少し間をおいて新たなクラブの吹奏楽の仲間にも「今までありがとう、さようなら」とラインした。

 しばらくすると、家の普通電話は鳴りっぱなし。残された兄弟のスマホや携帯も「あっと」いう間にメッセージで満杯となる。母親は親しい友人に事情を聴くと弟がしたことが解かってきた。

 「どうしてそんなことを思いついたの?」「・・・・・」「寂しかったの?」「うん・・
うん・・うん・・」と言うばかり。「なんかしたかった」と涙を浮かべた弟を母親はしっかりと抱きしめた。

 メールを送付されたサッカー、吹奏楽の仲間からの「非難やお叱り」は皆無だった。逆に、海斗の心意気が皆の中に生きているのだろう!夕食までの雰囲気は何とも言えない幸福なひとときだった。

 翌日、玄関に来客の合図があった。母親が出てみると小学校の校長・担任の先生でした。校長は「今日、卒業式があり、卒業生全員に卒業証書をわたしました。ここに海斗君の賞状があります。ぜひ受け取ってください」だった。東京の友人の声が電話の向こうで弾んでいた。
平和でなければ160号 
冷蔵庫の鍵
 「お母さん、冷蔵庫一杯やし夕方まで入れといてね」と同居の娘。何となく嫌な予感がした。

 大阪で同僚の男性と生活していた。時々、京都の実家に帰り、私物を運んでいた。その時も「何故か」彼氏は車の中で待っている。それを見ていた我が夫は「家の中に入って貰ったら?」と云う。
 私は「いややわ!どんな挨拶したらいいの?」「そやないつもお世話になってますも、おかしいなあ」「普通は向うからするものよ」「ややこしいし、今回はほっとこか」と目をつぶっていたら6年もたっていた。

 ある日、2人で「結婚式をするので来てほしい」と日時と場所を指定される。当日、平服で参加した。別に両家の親が紹介されるでもなく、ましてや挨拶もなかった。   先方の御両親も何となく「ほっと」した様子だった。でも、これはほんの序奏。

 連休に娘からの電話「住んでるマンションが手狭になったので売りに出していたの、それが急に売れて行くとこがない。京都で探そうと思う。2~3日おいてくれへん」。
 
数日後、トラックに家財を満載して我が家に帰ってきた。当面、1階は我々。2階は娘夫婦の仮の住みかとした。大型家具は滋賀県のセカンドハウスに移すこととした。それがそもそも間違いだった。
 
娘たちは「探す」ふりをしていたとしか思えない。「滋賀の家に行けば」と云えば大阪には遠い、交通費がかかると云う始末。孫が出来るといよいよ定住を固めたようだ。軒下を貸して母屋を取られる。風呂は使うし、子守りも、食事も作れと云う状態に陥る。
 夫の両親を見とり、勤め先も定年。これから年金生活を楽しもうと思った矢先の事件?でした。
 夕食は夫の好物の焼き肉、満足そうな顔。「デザートは何かない?」。冷蔵庫の食べ頃の果物に向かう。開けてみると、メロンをはじめとしたものが全て消えていた。
悔しくてその事を話すと、「又、買ったら、いいやないか」と苦笑いし、「平和やなあ」とつぶやいた。私は何も言わずに根こそぎ冷蔵庫を襲う娘が許せなかった。
「冷蔵庫に鍵をかける?何も入れない?」の選択に迷った。暫くして、「お母さんどうして冷蔵庫を使わないの」と聞いてきた。私の久々の「クリーンヒット」だった。
 平和でなければ159号
本当の味・びお亭
  こんな熱々のみそ汁を食べさせる店があるだろうか、それも1杯づつ味噌を溶いているとしか思えない。常連さんに聞いてみましょう。

女性スタッフに一番人気のSさん「しんどい時も口に入れるとお腹に納まって行く」。有機野菜のすごさ!
学生の頃、自分を知るため世界に放浪の旅に出た。そんな中で見つけた整体師のドクター。予約でいっぱいだそうだ。私も彼の横に座るとなぜか落ち着く。

Tさんはいつも副食と少々のみそ汁を注文する。夏場は必ず「梅干し1個」。帰りしな、持てないほどのリンゴを購入する。それは尋常ではない。「信濃ゴールド」「信濃レッド」「ピンクレディー」「王林」「紅玉」「サンフジ」もう覚えられんわ。そんな時いつも携帯が鳴る。現役バリバリの働く女性

 小さな紳士Kさん「真夏の席はやっぱりここや」と冷房の真下に席を占める。そしていつも玄米定食と別にあと1品をペロリと食べ「御馳走さま」と云い席を立つ。
「花粉症にはここしかない」「牡蛎フライが出る頃やなあ、今晩予約しといて」。

 「たまごにめはな」の美人。上品で、おちょぼ口のNさん。玄米や胚芽米を食べているとたまには、ものすごく「こんなもん」が欲しい時がある。御池王将で嫁さんと餃子とにらレバを注文した。タレをまぜていると「石黒さ~ん」と呼ぶ声がする。
「な・な・なーんと」Nさん。「食べたいですよねー」。それ以前からフアンだった。食後、側をとおると気さくに言葉や目で挨拶をする麗人。

私は会社も家庭も、「窓際」だ。この場所が一番落ち着く、性格にあう?としておこう。びお亭さんを知ったのは、まったくの味音痴な頃、30代の後半?夜に来て、訳もなく、飲めないワインをたのみ、つまみに数品とった。美人のママが「そんなに食べられませんよ」と注意してくれた。

嫁さんが乳がんの手術。義母も入院、どうすべい!「びお亭さんに行けば」と云う。
それから夕食は此処ですることとなった。その時も、もっと、もっと美味かったに違いない。反省の日々だ。もう手遅れ?の声。    (次号はスタッフについて)
 平和でなければ158号
再読の奨め
  加齢が進むと様々な制約が出てくる。小さい活字は特に苦手だ。大きな字の単行本は値がはる。結局は文庫本、大衆小説、時代モンになる。
そして夜、就寝時に枕元に何か本がないと不安が募る。中毒症状である。

 棚の上の文庫本を手にした。直木賞受賞者横山秀夫の「顔・FACE」。入賞後の「シリーズ」もの。その時の読後感は「なんや」だった。

 再び読み始めると、最初に筋書きだけを読んでいたのだと云う事に気がつく。そんな自分自身が嫌になる。

この小説の本当の中身は?この女性主人公に何を語らせたいのか!               その仕掛けを作者は考えていたのだ!映画にすればあの女性が主役、あの上役にはあの人、と創造力が湧いてくる。それだけこの小説は完成度が高かったと今思う。

 ちなみにこの「顔・FACE」はある地方県警本部の広報公聴係。警察にそんな部門があったのか?警察署と云えば「たて社会のトップ」。そこにたまたま配属された女性警官の物語。

 様々な試練を経て業務に悩み、励む。それを支える先輩たち。官僚的な職場にあっても前え前えと進む。それが説得力ある文章でつづられる。

 人は他人の評価を気にしがちだ。特に、我々日本人はそんな人種かも?小説だけでなく、テレビ、映画、芝居等の見方もそうだ。私は好きな映画だけは新聞を読まないで映画館に出掛けます。

最後に我が家の大編集長に批評をお願いする。終章は「涙・涙・涙」の感動だったと大賛辞。「めいほう」のつわものもお願いします。
 平和でなければ157号
人生下り坂最高
 桟敷岳に登ったのは同僚3人のハイキング。記録1964年6月7日。22歳の青春まっただ中、雲ヶ畑から薬師峠経由山頂・狼峠から魚谷峠、出合橋への下山。大休止後、上賀茂神社まで転がり下る。バスを待てば良かった!

ヒントは火野正平の「こころ旅」。「人生下り坂最高」の言葉「そうだこれだ!」5年前の正月、市バス9番に乗車、終点下車。賀茂川にかかる西賀茂橋がリハビリのスタートだった。
道筋をしるした。周山、京都西北部、京都東北部、京都東南部、京都西南部、淀の6枚に朱線が連なる。巨大な人間の動脈だ。八幡まで何本の橋をくぐったんやろ!

出会った人が走馬燈の様に浮かぶ。その外人は「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。生意気に親指を立てたが限界だった。水分、チョコを口に含む。気温も軽く30度超え。九条通りに架かる東山橋が終了点。「今日はこれ位で堪忍したろ」。

目標「小枝橋」。足早に下る。橋下で女性2人がトローンボーンとサックスを合奏している。「何か吹いてください」「まだ練習中です。貴方も何か出来ますか?」と返される。「棚の上のヴァイオリン」が頭をかすめる「頑張って」とオタオタ通過する。

右足に違和感を覚える、出町の広い河川敷のベンチで大休止。周囲を見渡す。短パンのランナー、スケッチブックを開く娘さん、昼食を摂る若者、鳩に餌を播く人、カメラの観光客、にあいのカップル、飛び石を渡る親子、我々もその中の一員。

淀の町に入る。商店街に人の列が出来ていた。最後部の子に「何か美味い物ですか」と尋ねる「何だか解りません、皆んなが並んでいる」と答えた。連れと顔を見合わせにが笑い。「そんなん、いやや」と列から離れた。

地元の人?引掛け釣りをしてる。どこか景色が違う、自然と街が融合している。「旬のアユは美味いで!」と聞いてる内に「とうちゃこ」。地下鉄くいな橋駅を探した。娘さんが来る、2人に手を差し伸べる如く付き添ってくれた。幸せ色って黄色?

週末、「宮前橋」から。嫁さんに「続き行く?今日はゴールやで」「行きます!」3年半の「相棒」だった。人生下り坂最高まだまだ下りまっせ。
  平和でなければ156号
コーヒ年度
  友人の喫茶店が廃業になり1年。堀川三条近辺を探索する、商店街にも色々あるが、古くからの店が多く、何となく敷居が高かった。どの店も帯に短し、襷に長し、昨日はあの店、今日はこっちの店だった。

二条駅前まで足をのばし、仏大、立命の学食ものぞいてみた。探し物は諦めた頃に見つかる。京都には珍しく綺麗な名前だ「美福通り」を御池から少し下がったところにあった。カフェ「セバーグ」。

 店主の性格はあとにして、コーヒは種類も多く、まろやかで旨いの一言。お気に入りはインテリア、椅子やソファー、テーブルの配置が絶妙。洋画のポスター・雑誌、棚の古いコーヒミルの数々。3回ほど連日、午後から出掛けた。「毎日、飲んではるから知ってはると思いますが」と話しだした。

 新米や新茶の様にコーヒにも「新豆」がある。地域により収穫時期が異なるので一概に言えませんが、基準として10月1日から翌年9月30日までを「コーヒ年度」と呼ぶ。収穫したてを「ニュークロップ」、年度内を「カレントクロップ」、2年以上を「オールドクロップ」だそうだ。
 
さらに、コーヒの苦みや香り・渋さ、焙煎ついての講釈があった。さすがこの業界に数十年の知識を披露する。ちなみに、今日は「オールド」のミックスレギュラーを注文した。

 翌日も午後から出掛けた、注文のコーヒを飲んでいると「コーヒの効果」を語りだした。コンビニの淹れ立てコーヒ。美味そうな香が客の精神を和らげる。早朝、仕事に行く客が朝食・昼飯を買う、誰もが誘われ一杯を注文する。側にはお釣りを入れる募金箱がある。淹れ立てコーヒ設置から、全店の募金額が飛躍的に増えたと云うのだ。
 
かって、コーヒは「睡眠障害」「発ガン性がある」のイメージがあった。現在の到達点は「子宮ガンのリスクを下げる」、「肝臓ガンへの効果は確実」と終えた。

今度は聞いてみよう。店名の「セバーグ」。あのヌーベルバーグ女優ジーン・セバーグのことだろう!映画の話を、次のコーヒタイムが楽しみだ。
 平和でなければ155号
学友たち 
 急に涙声がしたので皆の関心が集まった。「一人でも泣いてくれはる人の為に上手くなりたい」「それが出来れば何にもいらない」と話している。

 N子は応募する前夜に夫・息子に読んで貰ったそうだ。2人は感動のあまり涙ぐみ「お母さんらしく、いいじゃない」。「大勢でなくてもいい、喜んでもらえる人の為に綴りたい」。向かいに座るM子も目にハンカチを押し当てていた。

 心斎橋大学の4回目の同窓会だった。京都の「松栄堂」が毎年「香・大賞」を募集する。そのコンテストに入選したのだ。

 早速、ネットで検索。昨年度第30回の佳作「息子」。内容はお香の香りと云うよりも、「におい」大賞と云うのが当たっている。1人息子が永年続けてきた剣道と母親の愛情エッセー。

 いつの間にか大人になり、練習着の洗濯や整理を自分でやりだした。せめて駅までの送迎はと思っていた。それも親の手を煩わしたくないと云う優しさ、親にしてみれば子供が成長して育つ嬉しさ、寂漠感がN子の表現の巧さを引き立てていた。

 M子も息子が4月から名古屋に赴任する。友達より家庭がいいとほとんど大学と自宅の往復で4年間心配していた。「2~3年は自活をする」と。N子の話を聞き思わず、我が息子の巣立ちがオーバーラップした。

 心大に入学した時、誰もがプロ作家の技を学ぼうとした。幾冊の読書を重ね、辞書をひもとき、多くの芝居や映画を鑑賞したのだろう。やっと創り上げた作品に何十回の推敲を重ねたであろう。受賞は何よりも変えがたいものだった。

 別れる時、さらにN子は第51回PHP受賞を小さな声で伝えた。205円の小冊子の巻頭「生きる」395話、「私を救ってくれた先生と油絵」53歳の作。

 彼女は「読み手」の心を鷲掴みにする術をつかんだのかもしれない。学友たちの新しい旅が始まろうとしている!「つぎのたかみ」を目指して。 
 平和でなければ154号
 いっぱいの思い出
  昨年春、東京の友人から「おはようございます。残念なご連絡です、入院していた孫の海斗が昨夜永眠しました。残念でなりません。ご夫婦には御守りをはじめお世話になりありがとう御座いました。短い人生だったけれど、力いっぱい生きてくれたと信じています」。

 年末、夫婦は孫の分骨で京都に来た。こんな話をしてくれた。海斗の兄のサッカーチームは全国高校選手権西東京大会ではなかなか上を目指すことが出来なかった。
亡くなった直後だった。兄は海斗の背番号6を付け試合に臨んだ。

 これでチームは負けるわけにはいかなかった。前半に2点をゴールにたたき込み、緒戦をものにした。選手、応援団は歓喜の渦に舞った。

しばらくして、応援の母親2人が「アゲハ蝶を見た」と云う。他の大人たちも「私も俺も」と話す。昔から「亡くなった人の魂がアゲハ蝶になって帰ってくる」とつたえがあるそうです。
 
 2回戦も「アゲハが勝たしてくれた」1回戦と同じように「蝶が飛んでいた」と選手たち。そして3回戦につないだ駒沢球技場だった、残念ながら4回戦には進めなかった。背番号6は攻守にわたりピッチを駆けめぐった。

 さらに、葬儀の時だった。その式場は始まる前から子供たちの幾重もの列が出来ていた。読経の声と鐘の合図で始まった。参列者の焼香がいつ終わるのかと云うほど延々と続いた。式場の周りに迷惑をかけるほどの流れとなっていた。

 お別れの時間が迫ってきた。いよいよ柩が開けられ参列者が思い出の品を海斗の周りに置いて行く。花、サッカーボール、シューズ、ユニホーム、本、お菓子・・・・。

柩のそばの人々はそこから離れようとしなかった。係の人が出棺しようとしたが思い出にあふれ、大きく膨れ上がって納めることが出来なかった。

2人は「私達が代れるものなら」と話を終えた。わずか12年の短い、短い、短い人生だった。
 平和でなければ153号
青春の滾り 
  思わず耳をふさいだ強烈なドラムの音、大音響のリードギターの響き。これがロックのしゃべくりか?五秒も聞いておれなかった。今更帰ることもできなかった。最後部の奥の席。隣の親子らしい二人の女性も顔をしかめて両手を耳に当ている。

 でも人間とは不思議な生き物だ。下を向き目をつぶるとなぜか心臓の鼓動とドラムの強烈な響き、エレキの大音響が微妙に調和してくる。顔を上げ、耳から手を放す。もう、若者の領域に入ってしまっていた。初めてのライブ・コンサート。

歌詞も何を唄っているのか解らなかった。そのうちひとつのことばが聴き分けられるようになる?「あの光の向うに幸せが・・・」「何もなかったけれど、沢山あったよ。有りがとう、じゃあな・・・」。堀川丸太町「アフタービート」のライブ・ハウスの若者の表現方法だった。それは山への情熱と変わらない夢を秘めていた。この演奏の向うに!
2人目幾田颯(いくたはやて)は4回戦ボーイの20才のピチピチ。「あっと云う間」のノック・アウト、五一秒。一昨年末、メイン・エベントの井岡一翔のWBA世界フライ級タイトルマッチの前座試合。ボクシング初見参。

高校卒業後、大阪の井岡ジムに入門。練習に継ぐ練習。土日は京都に帰り、三条商店街の「トロン温泉」に来る。父親や弟と楽しく湯船で話す姿をよく見かけた。昨年の六月は七回TKO勝ちで「ハラハラ・ドキドキ」もの。世界チャンプの試合は美しい。でもボクシングは単なる殴り合いではなかった。ルールに乗っ取ったスポーツ、プロの生死をかけた自己表現。もうすぐスポーツ新聞を飾るに違いない。

  青年Aはあの臭いのする風呂場に飛んで行った。ほんの数秒のことだった。いやな臭いは消えていた。ボランテアでしている麻雀の仲間も顔をしかめた。「また漏らしよったな」「Aが行けば間違いない」「ほんまにあいつは上手なんや」。それを聴いていたBは「浴場介護や下の世話の講習会の先生やで」と云う。Aが!信じられなかった。おとなしく、日頃何にも喋らないやつが。

  三人のパホーマンスは正に生き方も問われている。先行きの見えない昨今。我々の未来もこんな若者達の滾りと共にから生まれに違いないと思った。
 平和でなければ152号
しりませーん
 「全国の消費者の1/3が生協に加入してるて知っていますか?」、「知りませーん」。「生協の注文はカタログだけではなくスマホで出来ると知っていますか?」、「知りませーん」。「子育て中の子供がいる家庭の配達手数料が割引になると知っていますか?」、「知りませーん」。とまあこんなCMでした。

「知りませーん」を一卵性双生児のあんちゃん・りあちゃんが声を揃えて叫ぶのです。最後に「知ればもっと好きになる」。とちゃんと落ちがあり、生協にしてはいいセンスと思うのですが?SNSでは大不評?

一方、軽妙なダンス風の動きとセリフで「クローゼットの中にはダニが湧きやすい、
知りとうなかった、知りとうなかったよ」。「ゴンゴン ゴン ゴンゴンゴンゴン」「ゴン ゴン ゴン」「ゴン」と唄う。「タンスにゴンゴン」のキンチョーのCM.。こちらは二卵性双生児のMIOさんとYAEさんが見事な演技で大評判。

 2つのCMを観た時、強烈な衝撃が走った。この映像を製作したスタッフは現実の世の中を見て作っている。そして怒っている?それはそうでしょう。
この時期、前都知事舛添の政務活動費問題、東京五輪の異常な予算、いつの間にか600億円になるボート会場。豊洲問題等々無茶苦茶な議会。
 
 「知りませーん」は目をつぶるとこう聴こえました。議員が「記憶に御座いません」、「記憶に御座いません」と連発するのを。「豊洲の盛り土をしなかったのは誰が指示したのか?」「知りませーん!」「知りませーん!」と都庁幹部。

「クローゼットの中には・・・」は「都議会の中にはダニが湧きやすい」と強烈に皮肉り、さらに議員や役人の頭を「ゴンゴン」と殴っている。と想像できる。

 マスコミ全体が現政権に及び腰、CMのスタッフはせめて製作現場で意思を示そうとしているはず、いやいや真相はもっと深刻だろう!! 私だけの深読み?

国会、都・市町村議会の「ダニの駆除」と「知りませーん」を改革させる。我々の税金を住民のために使う、当然の事だ。「目線だけではあかん」でえ、横文字好きの知事さん。 
平和でなければ151号
大叔父さん (短編小説の練習?その2)
  ある雪の朝、生徒が教室に入り椅子に座ると、その先生は全員に下を向いて目をつぶれと云う。そして、先生は教室のガラスを割った人は手を挙げなさい、誰が手を挙げたのか誰にも解らなかった。成績なんて「普通」でいい。そんなことより友や仲間を大切にすることの方がずっと素晴らしいことだといつも話していた。

 それまで学芸会は成績の優秀な子が主役だった。その先生は一人一人が主人公だ、全員でのシュプレヒコールや観客席から何人かの子供たちが飛び出し、全員が楽しめる劇を創作した。保護者会でも進学は「公立中学・高校」を奨めた。そんな先生に影響を受けたのであろうか。
木島(このしま)温夫(はるお)さんは京都市立高校を受験した。合格発表の日、会場に出掛けた。「運よく」入学が決まる。その頃、一番の親友の受験番号もお互いに教えあっていた。友の番号はなかった。帰り道、その子に出会う、「どうやった」と尋ねられた。何も言えないまま気まずい別れ方をした。その事がわだかまりとなりそれ以後、他人との競い合いを止めることにした。

 私と木島温夫さんとの出会いは、三十数年前、当時まだ珍しかった学童保育のメンバーの一員。私はただのサポーター。ある日曜日、学童で滋賀大学の付属農場に出かけた。木島さんは先生ですと紹介されると「大学では花はなんで咲く?と云う当たり前のことを研究している。だから、私の仕事は直ぐに世の中で役に立つとか、石油のように直ぐにお金にはなりません」と笑った。

 それから竹林で竹の子ほりをした。何本もとった男の子、一本もとれなかった女の子、様々だった。彼は皆で掘り起こした竹の子を作業所の床に並べさせた、当然のように小さな子から順番にとらせた。その子は一番大きな物を腕に抱えた。男の子が「もー、僕がとったのに」。すぐ、「あんたらこれから生きていく、こんな時、強いものが先にとったらあかん、弱い人から」。
 彼は学童で「先生」と呼ばれる事を非常に嫌がっていた。学童では若い指導員がちゃんと役目を果たしていた。そんな気遣いがあったのでしょう。

 数年後、学童のメンバーの家族が首長選挙の侯捕者に選ばれた。会員の多くの人が応援しようと後援会が作られた。取り敢えず、町内のお寺を借りて簡単な挨拶と演説会を開いた。選挙戦はまれに見る接戦、僅少差で敗れた。メンバーは大声で泣いていた。彼の目は悔しそうに「じっと」仲間を見つめ続けていた。

 昨年正月、木島(このしま)櫻(おう)谷(こく)さんの生家、木島温夫さん宅を探訪するテレビ番組があった。木島さんから事前に知らせを貰った。番組では木島家門外不出の絵画が紹介され、続いて衣笠「櫻谷文庫」の住居・庭・画室が映された。後日、お願いして友人たちと、その秘蔵の絵を見せて貰った。真近で見る壁一面の壮大な1幅の掛け軸に圧倒され、言葉が浮かんでこなかった。

温夫さんは櫻谷さんを「大叔父さん」と呼ぶ。明治十年三月、本名文治郎といい、父木島周吉、母すえの一女三男の次男として生まれる。十四歳の高等小学校時、第三回内国博覧会に代表として鉛筆画を出品。十六歳、今尾景年に入門する。その後、様々な賞を獲得し三十六歳にして京都市立美術工芸学校の教授となる。なぜか、最高の栄誉と言われた帝室技芸員、帝国美術院の会員には選ばれなかった。京都画壇では不遇をかこった。竹内栖鳳派が中心だったから?その後も「展覧会の申し子」と言われるほど多くの作品を出展し受賞する。

 櫻谷さんは日本文化近代化の祖と言われた岡倉天心が新たに設立した美術学校への誘いも断り、弟子や親族との生活を選ぶ。
 京都では身近な社寺には「祇園さん」、「天神さん」と「さん」をつける。敬愛する人にも「湯川さん」(ノーベル賞)、「末川さん」(平和運動)と呼ぶ。二人とも仕事は超一流、身の処し方は現代的で優しい、エコ系だ。京都人には東京に靡かない頑固さが「櫻谷さん」と愛しく呼ぶことを加速さすのだろう。絵画だけでなく、こんな温かい作品も残している。三歳で亡くなった孫(文夫)の命日に詩集にしている。
「お馬が通る」
かどは四つ辻、お馬が通る、東から西へ、南から北へ、昨日もかっぽ々、今日もかっぽ々、うちの文(ふみ)さん、お馬が好きで、いつもだっこで、嬉しそう・・・。

 秋、木島櫻谷展、内覧会の招待状を頂いた。櫻谷さんの描いた華やかな六曲一双の「秋草図」屏風前でテープカットが行われた。入口から二番目にあの幅広の軸が目に飛び込んできた。木島家で見たより数段ハレしていた。武田勝頼一族の滅亡を描いた臨場感ある目玉作品となっていた。「一夜の夢」は木島家の親族だけで語り継がれていたもの、21歳で病死した櫻谷さんの弟桃村が命を懸け完成を夢見た作品でした。

 私は貴重な絵画や資料を心安く見せて頂いた木島温夫さんの心意気に涙する思いだ。小さい頃の教師の教えを頑なに守る、そこに櫻谷さんと温夫さんが二重にかさなる。この気概が櫻谷さんの心意気を継ぐ人であると確信した。
平和でなければ150号
私は小物②
  今、私の大切な「べっぴんさん」はベトナム製の綿製品のタグで作った「しおり」。本に挟んで気分良く使っている。昨年の年賀状にも採用、我ながらバカと思うが!らしくていいか?

 6月の中旬、退職した会社の先輩Mさんから封書が届いた。誰もそんなものが届いたら「何事かと」驚く。嬉しさと不安?のない混ぜで開封する。木製の「栞」4枚とA4の手紙が入っていた。
 
「拝啓、・・・・早速ですが、今年の年賀状に書かれていた「しおり」の件ですが、いろいろ試行錯誤の末、同封のような物を作ってみました。気に入ってもらえたら一度使ってみて下さい。日にちがたって忘れてはるかも知れませんが・・・」。

「栞」を1枚々手にとる。薄色の2枚には花の絵模様と小さな字で「さくらそう」、「つくし・すぎな」と彫られていた。すこし茶色っぽい2枚にも其々花柄が。読みながら・触れながら「ジーン」と熱いものが走る。半年前からこんな素晴らしい作品を作ってくれていた。花名入りはお佐代さんの分、花柄は私の分と想像すると自然に涙があふれてきた。

 「センパーィ」のエピソードは伝説的。半世紀前すでに「男性専科」を購読して、上下の少し短か目の背広、縦じまのシャツ、ピカピカに磨かれた靴。当然、職場の女性の人気を独占した。休日にはワンゲルで活動した。1965年5月、佐々里峠から京大演習林、小浜までの山行だった。6人用テント、ホエーブスを一番にとりザックに入れた。会社でも組合でも無くてはならない人だった。

 これで来年の年賀状の図柄も決まった。この「栞」の良さを最大限表現するイメージは出来ている。この新たな「別品」の効果?読書数は昨年をうわまわる。

 ところで、NHKの朝ドラだが、時計代わりに見る。「1億総活躍社会」は安倍のミクスの看板。一見、女性総活躍を期待する内容だが保育所不足等で見られる周辺の施策は皆無に等しい。低賃金女性労働者を増やし、国民健康保険、国民年金の新たな財源の確保と映る、「1億総貧困生活者」計画と見るのは「ひがみ目」?
直後の「朝一」では豊洲問題は知らんプリ。朝ドラの宣伝に終始する女子アナ?
平和でなければ 149号
わすれじの  
 宇治のSさんから久しぶりのメールだった。こんな文ではじまった。「天候の不順で体調をこわし、高熱に悩まされ、おいで、おいでの白い手が悩ましげに手招きしてきた」。

 まだほんの少しこちらに未練があり、後ずさりするたびに高熱がぶり返し「ほれほれ、その世はそんなに熱いところ、我慢もほどほどに、こっちにおいで」とまたまたお招きの声が耳元でささやかれた。

 私も同じ時期に、体重が急激に増え、食欲、睡眠が取れなくなる、定期的に診察を受けている京大病院はまだ先の日だった。緊急で何時も世話になる近所の病院に駆け込んだ。

 血液、レントゲン、超音波画像検査を受ける。胸・腹に水がたまっている。すぐに京大病院に行き診察を受け!だった。帰り際、腫瘍マーカーも検査しましょう、結果は今週中に電話する。電話がなければ癌ではないと?

 その日の午後、京大病院に予約を取り、翌日心臓の主治医に見て貰う。検査の結果を見て「そんな重大な状態ではない、こちらは貴方を三〇数年診てきたのだ」と怒られる始末でしばらく様子をみようだった。

 帰りにいつもの友人の喫茶店に行く。私の指定席?に先客が座っていた。「長いあいだ見てなかったが、元気やったか」「いゃあ・・ぼちぼちやったけど」と云いながら互いに体の事を喋る。

 ママが「あっちの世界も居心地がいいらしいよ、心配いらん。なぜなら、だーれも帰ってこないからね」。別のお客が「座布団三つや」と笑い転げた。あの「おいで、おいで」手招きが「スー」と無くなった。

 そして京都一のこの喫茶店も昨年11月末、30数年の歴史をとじ、万里小路の街から静かに消えて行った。常連さんと一緒に私も先代の親父さんから継承された味を舌先に刻みこんだ。
 
平和でなければ 148号
ある日の大阪  
 南海難波駅、高野線一番ホームは改札口から一番遠いところにある。沢の町駅は各停しか止まらない、「天下茶屋駅」から直ぐの所。お佐代さんのヨガの講習会場「住吉区民センター」の下見だった。

 息切れの激しいこの頃。一番ホームまでは「こころ旅」火野正平どころではなかった。座席に付くと周りの人々が我々を見ていた。間もなく「沢の町」に着く。

 駅前の案内板を見ていると「どこへ行くのですか?」と「道案内しょ」の菅ちゃんかと思いきや?南海で乗り合わせた浪速の年配夫婦だった。「区民センターに行きたいのですが?」「ああ、ここからまっすぐいったら右側にあるで」と親切に教えてくれた。センターまで一緒に来てくれそうな勢いだった。
ここまで京阪、地下鉄を乗り継ぎ2時間弱。場所は直ぐにわかった。安心して元の道を戻る。

 交差点信号待ちでパチンコ店に貼ってあるボクシングのポスターを何気なく見ていると自転車を押しながら「これは私の息子ですねん」とグラマーで美しい女が声をかけてきた。指さす先はユースのミドル級チャンピオン・タイソン康輝選手。「息子は小さい頃はやんちゃでした。でも練習や減量を乗り越えここまで来たんですよ」と訛のある日本語で満面の笑みで話をしてくれる。在日韓国人?よほど息子のポスターを見てくれる人が嬉しかったのでしょう。

 小雨が落ちてきたので喫茶店に入る。専門店らしくカウンター横の壁にチケットらしいのが何列もぶら下がっていた。小腹もすいたのでトースト付きのコーヒを注文すると。店主はレーズンパン付きが3時からのサービスと云う。少しすると「プーン」とバターの香りのする皿とコーヒを運んでくれた。真ん中に切り身が入り、こんがりと焼け目が付き、その上、レーズンの甘味が風味を添えていた。まさに、安くて美味いサービス大阪の味だった。350円。  

 難波の手前で、車窓から大阪一高い「ハルカス」が見えた。でも、私にとっては「道案内しょ」の夫婦の何気ない親切心、美しい韓国女性の人なっつこさ、喫茶店の大阪らしいサービスがもっと、もっと高く・熱く感じた1日だった。
 
平和でなければ 147号
マイケル・ムーアの世界  
 この監督のムービーはいつも考えさせられる。「世界戦略のすすめ」は真実をついている。アメリカは第二次世界大戦後、先導した朝鮮戦争、ベトナム、アフガン、イラクと全て負けている。負けているばかりか世界のいたるところにその禍をまき散らした。イスラエルの建国は結果的に「IS」の樹立を促し、「9.11」「パリ「ロンドン」「バングラデシュ」のテロが広がった。

 その上、よく考えてみるとアメリカは西部開拓時代から少しも進歩がない。典型は「銃社会」だ。全米ライフル協会が政党を牛耳っている。一度決めたら代えられない保守的な国。他国も腕力で脅す野蛮な?国としか言いようがない。 

 そこで監督はアメリカが一度も遂行したことのない政策を世界に探し、その国を訪ねる。一番手はイタリアだった。有給休暇が年に8週間、バカンスの国。人間働くために生まれてきたのではないのだ。のメッセージでもあればさらに嬉しかった。

 休日や退勤後に上司がスタッフに連絡すると違反になるドイツ。日本では日常茶飯事だ。
圧巻は1は鉄格子も無く、出入り自由な1軒屋に住む北欧ノルウエーの囚人。その2は学校教育、宿題も無く、授業時間は週20時間の同じ北欧のフインランド、学力は常に世界のトップクラスに入る。教師の残業などもってのほか!これはどうかと思うが麻薬の使用は他人に迷惑をかけるわけじゃないので合法の国ポルトガル。

 完全健康保険国キューバ、軍隊の無いコスタリカ、ハイチ、ドミニカ等23ヶ国。バチカンは主な武装は槍と催涙スプレーと云う。これも抜けていた戦争放棄を謳う我が日本。忘れてならないのはEUの中央にあるスイス。どこの経済圏、軍事圏にも属していない。永世中立国この選択もあるのだ。

 アメリカが西部開拓の時代に日本では豊臣秀吉が「刀狩り」や「検知」を実施、武士以外には人を殺す武器を取り上げている。それからみればアメリカなんて、まだまだ「ひよっ子」。私はそんな国の属国にはなりたくないし、くさっても「もてなしの国」だ。どうしてこんな映画が文部省選定にならないのだろうか。 
平和でなければ 146号
米寿の演技  
 能登「演劇堂」でみた仲代は「マクベス」のファーストシーン、舞台後方の扉が開くと、颯爽と山から馬に跨り駆け下り「ひらり」と音が聞こえる如く下馬、我々観客の前に姿を見せ「あっ」と驚かせた。生きいきとした仲代らしい重厚な役柄を終章まで見せてくれた。76歳。
 
あれから7年、労演6月例会ロームシアターの「俺たちは天使じゃない」では「えっそうなるの」「まさか」「やられた!」と、考えられない83歳の軽快、軽妙、洒脱な大人のおとぎ話。
 
 俳優座養成所入所後、五味川純平の空前のベストセラー「人間の条件」の梶上等兵役で監督やスタッフから絶大な信頼を勝ちとる。
名監督黒沢明の目にもとまり以後、黒沢映画には三船と共に無くてはならない存在となる。「椿三十郎」では豪快な三船敏郎に対してニヒルな正統派の仲代、最後の決闘シーンは時代劇の面白さと「殺陣」の素晴らしさを再認識させた。20代の後半。

でも、私はNHKの金曜時代劇だった「三屋清左衛門残日録」の清左役が好きだ。揺るぎない努力と天才肌の熱演は海坂藩の元家老の威厳、風格そして家を守る総領の嫁に対する心遣い等々、63歳いぶし銀の輝き。

幼馴染の町奉行佐伯は「事に当たって極めて慎重、と聞こえはいいが臆病なのだ。勇猛心が足らん。歩けと言われたらあの辺の塀につかまってでも歩く」。「貴公の様にはいかんさ、ひとにはそれぞれの流儀がある」と三屋は言う。まるで作者藤澤周平の心と自分の気持ちを吐露したように思えた。人生、前に向って1歩1歩なのだ。

 「自分たちが素敵だと思う次代の役者を育てたい」と云う仲代・宮崎夫婦の思いが「無名塾」を生む。一般公募から選んだ卵達に3年間は惜しみなく教え、与えた。   勿論、無料。その中から脚光を浴びる役者が次々と誕生した。若村麻由美、役所幸司、益岡徹、渡辺梓等々。43歳の働き盛り。

 5年後、米寿を迎える。どんな芝居を見せてくれるのか。多分、平和の使いの神々しい演技を披露するだろう。わたしたちもしっかり生きていなくてはならない。
 
平和でなければ 145号
選ばれた器  
  いつもの鍼灸院の待合室で何気なく本を見ていた。「和楽」の別冊「日本の名茶椀50原寸大図鑑」。「唐物」の天目茶碗に始まり「高麗」、「和物」、「楽」と続いていた。カラーの写真集だから何回もペラペラと見直していた。黄瀬戸、唐津と並び、信楽のページで何か「ピーンと」来た。その時、「石黒さーん」と先生の声。

 いつもの治療が終わり、例の本を借りる。早速、パソコンの上の我が器を取り出し、その本を開く、手が少し震え気味?銘茶椀50では信楽の器はこの1品だけ。銘「水の子」。

 茶椀を見比べる。写真では赤く焼き締り、胴から腰にかかった灰が青緑釉に代わる。飲み口はわずかに波打ち、胴にはヘラ目が縦横に見られた。「似てる」「似てる」、間違いない。「何でも鑑定団」が頭をよぎる。

 高台を見ると正四角形のもの。こんな高台は初めてや。「全然、違がうがな!」だめ押しに「見込み」と「茶巾摺り」覗く。信楽独特の赤、私のは灰色。「やっぱりアカンがなあ」。
 信楽行きを始めた14~15年前。陶芸の森に入る交差点の前にあった「澤甚」。その店は信楽の若手の作陶家、巨匠の作品があり、修業時代の習作も販売される店だった。店頭の箱にキズ物が置いてある。
 
 「澤甚」に寄るたびに箱を覗いた。高価なものは見るだけ。店番のばあちゃんも心得て手頃なものを奨める。「価格は任されていません」はきまり文句だった。あの器も修業時代の作品だったのだろう。重文級を模倣する。作陶家の第1歩とばあちゃんは話していた。その店も最近は白いカーテンがひかれたまま。どうしたのだろう?

 300円が何百倍にもならなかった。でも自分で選んだ器、棚の一番の場所にそっと置く。そしてしばらくじっと見続けた。

 「原寸大図鑑」は1泊2日の旅から元の場所に還る。受付で器の話をしていると小さな声で「石黒さん治療を始めますか?」と先生の呼ぶ声がした。
平和でなければ 144号
家族はつらいよ 
「何でも欲しいものがあるなら」周造(橋爪功)は妻富子(吉行和子)の誕生日祝いに話した。富子は嬉しそうに「あらいいの?」とタンスの引き出しから持ち出してきたのは「離婚届」。
山田洋次監督「東京物語」、「母と暮らせば」に次ぐ最新作だ。唖然とする周造。富子はお構いなしに部屋を出て行く。こうして平田家の離婚騒動は幕を開ける。ファーストシーンで大笑いと共に自分自身を振り返る、めいほうの男性陣は大丈夫でしょう!私と違ってまじめな「寅さん」だから?

結婚して何年目になるだろうか?嫁さんの実家で暮らすようになり家賃もゼロ、勤務先も近くなり、それはそれは平穏な毎日だった。ある日、いつものように友人と会社近くの飲み屋で一杯ひっかけご機嫌さんで帰宅。夕食のテーブルに私宛ての封書。何気なく裏返す。「京都家庭裁判所」だった。

恐る、恐る封を切った。離婚調停の「呼び出し状」だった。当日嫁さん?と二人で
下賀茂にある裁判所に出掛けた。受付で書類を提出すると別々の部屋に入る。
 
それから係員が事実関係を正した。私は素直にその通りと認め全面降伏。それからどうなったかは今も思い出せない。係員が再びこんな事がないようにと厳重に注意され無罪放免?ではないが、再び二人でバスで自宅に向かった。

平田家では長男・長女夫婦、次男と恋人、周造・富子の家族会議が開かれる。何でもない周造の一言がさらに混乱を!しばらくして「冗談だよな」と云うと「いいえ、本気なのよ」と言い返される。

富子の様子に観念した周造は「かれこれ40年なんだよ、お前と一緒になってよかった、そんなふうに思っているよ。サンキュ-、以上」と離婚届けに判をおす。富子「今なんて言ったの」と届けを破り一件落着するが!

安心した長男が「俺が定年退職したある日、離婚届けに判子捺して頂だいなんてそんなのナシだぞ」とつぶやく。家族を一番に支えてきた嫁史枝は「さあ、それまで持つかどうかしら?」まだまだ続きそう。是非、映画館に足を運んでください。
 
平和でなければ 143号
私は小物② 
 左京区の京大農学部の西側の雑貨を扱うフェアトレードの店だった。探し物は「しおり」。昨年、愛用を図書館で置き忘れた。それは多分中国かベトナム製のものだった。10数年使い、割れそうになればボンドで補修していた。竹の艶が魅力的で読書時の大切なグッズだった。

昨日は「鳩居堂」、百貨店・文房具屋さん等を軒並み探したが気にいる品を見つける事はできなかった。その店もないとのつれない返事?仕方がないので他の雑貨で代役を出来る物はないかと探した。

 あきらめて隣の「進々堂」でコーヒでも飲んで帰ろうと、奥の商品棚の横に小さな広告の紙がおいてあるのを見つける。何枚かを見て端の赤い宣伝紙が気になった。手にとると名刺の2倍ぐらいの大きさだった。直感的に「そうだこれで作ろう」。手は自然に動きその紙を半分に折っていた。後は家で制作だ。イメージが出来て安心して、コーヒもそこそこに自転車を飛ばす。

 ボンドで貼り付ける前に「何の宣伝」ともう一度開いてみた。米粒ほどの文字が目につく。ローマ字で「kamakura shop・ban rom sai」と読むことが出来た。
早速、ネットで検索をかけた。「バー・ロム・サイ」
 驚いた、ベトナムのエイズの子供たちをサポートするチエンマイの支援センターが作る綿製品のタグ?だった。心せねば!

 手持ちの木工用の強力ボンド、会社から持ち帰った潰れかけのハト目、古竹のストラップ。とデイサービスから借りた裁断機を用意した。あと紙やすり。

 仕事は簡単だった。きっちり二つ折にした材料にボンドを塗る。別の試作品も3枚作る。ボンドが乾き始めたとこを一気に貼り付けた。はみ出たボンドを綺麗に拭きとり、お菓子用の大理石の下に5枚を並べた。
 
翌々日、仕上がりを見る。あの薄い紙が接着剤の作用で適当な厚みになっていた。「バー・ロム・サイ」の1枚に「はと目」の穴を開け、古竹のストラップを装着する。私の二代目のグッズが見事によみがえっていた?明日からの読書のお供。
 
 平和でなければ 142号
若者たちの明日
 私にとっての「びっくりポン」。第二回の心斎橋大學の同窓会の案内でした。世話役の女性のメールの前段は普通の挨拶、段落からが違った。

 前回11月にやりたいなあと思い、「スケジュール調整ページ」を、「伝助」と云うホームに作成しました。お手数ですが、参加したい!という方は、下記URLから入って、各日程に出席出来る日に印を付けて登録して下さいますようお願いします。締切日は〇月×日です。

 数日後、再びメールで日程の一覧とどの日が一番参加者が多いかが一目了然に集計されていた。さらに、参加者の小コメントが書かれてあった。勿論、一番参加者の多い日が同窓会となったことは言うまでもない。
 場所も会を楽しむ居酒屋さんからメールが送信されてきた。「何やあっけないと云えばそうなんですが」「今の若者との思いが強かった」。今考えればその時はさすが若者だ。便利なものは直ぐに使う!

そう言えば、安保法案の円山集会でもそんな事があった。違憲判断で盛り上がり、1万人近くの参加者が狭い会場を埋め尽くした。集会は主催者の挨拶に始まり、政党、民主団体、学生が次々と壇上に立った。

「シールズ」や「ママさんの会」の挨拶はさすが今の子だ。名前を呼ばれると彼女らはおもむろにポケットやバックからスマホやタブレットを取り出し、指先で操作しながら話を始めた。

普段の生活で話す言葉は「気負いもない」「飾りもない」仲間たちが「ほんまにそうや」「こんな法案はアカン」が一層伝わり、一瞬ざわついた参加者の心を見事に捉えていた。「自分の子、他人の子、ましてや他の国の子も殺させない・・」。

電車やバスで席に座ると直ぐにメールやゲームを始める若者であるが、肝心な時、ガラ系の挨拶より素晴らしい形を残した。その昔「IT革命」を「イット革命」と言った元総理大臣がいまだに変な席で牛耳っている。それも「びっくりポンや」。そんな政治に人生を決められたくないと。若者の明日を見る思いだった。 
 
 平和でなければ 141号
4穴のハーモニカ
 ハーモニカとの戯れ)
 穴が4つ。1番左側の穴(吹くド、吸うレ)、2番(吹くミ、吸うファ)3番(吹くソ、吸うラ)4番目は(吸うシ、吹くド)の1オクターブ。長さ3.5cm・高さ1cmのネックレス型のミニハーモニカ。これがなかなか難しい代物。
 
最初は吹きやすいハ調の曲を探した。吹くうちに小学唱歌、童謡がその曲である事が解るようになってきた。でもメロディーにはならなかった。お佐代さんからは「何の曲?」と言われる始末。
 口にくわえていると自然に、ビートルズの「ヘイ・ジュウドウ」が吹けるようになる、2ヶ月は経過していた。「ふるさと」「春の小川」が持ち曲。あと少々。

それは確か半世紀前?鈴鹿の藤内小屋テン場で隣の住人が聞かせてくれた。昼間の熱気が収まり、一面の星空の元、その音色が周りを圧倒した。「荒城の月」だったと思う。仲間たちも話を止め静かに聴きいった。
新しもん好きの私は下山後直ぐに楽器店へ走った。思い出すと小学校の頃は「宮田」や「トンボ」ハーモニカを同級生たちと鳴らしていた。今は種類も多く高額だ。「3日坊主」を予想して一番安いミニにした。値段も7~800円だったのでは。手にするとなぜか?安心して急速に興味を失った。非常用懐中電灯と共に釘に鎖を付けられぶら下がったままで10数年はたっていた。

 昨年11月末からデイサービスで「麻雀ボランテア」をやらして貰っている。芸が社会奉仕に役に立つとは思なかった?若い人はパソコンやスマホのゲームはするが団体競技?の麻雀はほとんど出来ないそうだ。初日、何かアクセサリーがないかと考えていると鎖に繋がれたそれが目に入る。

 ジャン台を囲むメンバーは現役の芸能会社の社長、もう一人は84歳の呉服屋の御隠居さん、三人目は本人曰く元ホームレス。人生の修羅場ぷんぷん。
 サイを振るとゲームが始まる。久しぶりの4人打ち。3人ともなかなかの技持ち。芸能会社のKさんが目ざとく首からの小さなステンレスを見つける。
 
私は挨拶がわりにビートルズを奏でる?そんなものから音が出るのであとの二人もびっくりする。雰囲気に職員さんが直ぐに駆け寄ってきた。
 
そんな自由に吹ける訳でもないのに「二回目のデビユーをしませんか?」と春の舞台が決まった。「4穴との戯れ」はまだしばらく続きそう。これもアンチエイジング力を高める?
平和でなければ 140号
ゴリラの選挙
  昨年、新たに京大の総長に就任された山極寿一さんは候補者に選ばれた時、所属する理学部の学生、教授、職員が彼を選挙で投票しないでほしいと運動が興ったそうだ。総長に選出されると、「世界の人類学が七年遅れる」と反対した。       
でも、圧倒的な票数で選出された。学園の多くの人は学問が少し遅れることより民主的な京大にしてほしかったのだろう。理学部の教授が選ばれるのも最初だった。

就任後次々に新機軸の大学?を打ち出した。一つは「ウィンドウズ講義」。大学が小学校・中学校、高校に出掛けて行く。さらに廃校になった校舎での地域を含めた講座の出前。

もう一つは大学の「無料公開講座(ムーク)」だ。インターネットで総長による講義「人類進化論」の配信を始める。現役の総長・学長自らが講師を務める講義の提供は世界で初めてという。
その内容は日本で霊長類学が生まれた経緯やその発想等のテーマで六週間にわたって英語で講義を展開。毎回、学習状況をチエックするテストがあり、一定の成績を収めれば終了証も発行される。

 こんな発想が出来るのはゴリラ学の成果?就任インタビューで人類学について、チンパンジーとゴリラの違いを話された。
 チンパンジーやニホンザル集団のトップはボスだ。ボスの条件は雌雄関係なく強いものが集団を支配する。人間社会もこの集団だ。ボスはあらゆるものを独占する。
 
ところがゴリラやオラウータンの社会ではリーダーと云う。1匹1匹の個体がそれぞれ独立して存在する。ゴリラ同志が出くわしたとき、互いに自分の胸を両手で叩く。これは相手を威嚇するのではなく、ここに私がいますよ。認めて下さい。

そしてゴリラは絶対に争いをしない。リーダーは仲間が何を欲しがっているかを考え行動すると云う。霊長類で王者は人間でなく、ゴリラだった?
 
山極総長は人間がどうしてチンパンジーと同じ種属になったかを調査・研究していた。こんな総長に大学の人だけでなく、市民や国民も当然期待する。先の楽しみな人が選ばれた。こんな人に日本の政治を任せたいとふと思った。
 平和でなければ 139号
プロの技
その人は梅林のはずれの道端に座り込んでいた。植物園の北門から少しのところだ。最初は気分が悪くなり倒れているのではと思った。そっと後から近付く、その人は道端に垂れさがる萩を写生しているのがわかった。少し安心する。良く見ると横長の少し汚れた画用紙。さらに左手に鉛筆を持ち、目前の萩に取り組んでいる。傍の手提げ袋の中には様々な道具が入っているようだ。ペットボトルの横に杖もほり出してある?
 
次の週も同じ姿勢で萩に向かっていた。背中越しに、見せて貰う。用紙はなぜか縦向きだった。先週と同じように左手で筆を動かしていた。私にはどの枝や葉っぱ描いているのかさっぱり解らなかった。

 三週目?「おはようございます」と積極的に声をかけた。その人ははにかんだ様な笑顔で振り返り、再び萩に向かい左手を走しらせた。しばらくして手を止め自分自身に云いきかすように「事故に合い、右手が麻痺してしまう、ここまで来るのに時間がかかった」と話し始めた。

父親は日本画家で山口華楊の弟子。私も親と同じ道を歩み始めた。「描きたいものを良く観察せよ、そのまま画用紙に写せ」、この年になり父の「言う」意味が少し理解できるようになってきた。でも、友禅作家にはなれたが、それ以上は無理だったとしみじみとつぶやき、再び萩に向かった。

七月中旬、その場所に出掛けるとその人はいなかった。萩が大きく育っていた。せっかく、親しく?なれたのに少し残念だった。それからは何回行っても会う事はなかった。
 
猛暑がやっと峠を越した11月初め、その人は北門付近のコスモスを萩と同じように写生していた。久しぶりの再会?「あの絵は出来上がりましたか」。いつものはにかんだ笑いを浮かべながら、あの手提げ袋を引き寄せた。袋の中には大きなスケッチブックがあり、完成した絵?未完成の作品が見えた。

その中から一枚を取り出し、おもむろに開いた。仄かな御香の移り香。見事な萩が縦に三枚の画用紙を横向きに繋ぎ描かれてあった。淡い彩色が絵全体を引き締めている。私は一つの言葉を選ぶことすら出来なかった。
 
平和でなければ 138号
英語の御大師様 
12月21日は「終い弘法」、25日は「天神さん」だ。天気も21日が雨なら25日は晴れだそうだ。弘法さんでは最初に大師堂に行き、護摩木に願いを書く。最近はずっと「原発廃止」、「機密保護法粉砕」、「集団的自衛権廃絶」だ。そんな願いをする人はいるのかなあ?今だったら絶対いはる!

 ふと横を見ると、外国人向けの「お大師さんの御言葉」があった。
You were not simply born. You were given”a life that ends in death“If you bright birth is certain to end in a dark death, then”your life is suffering,”whaterver you may try to do, Being
enlightened dons not mean that you have become “free from suffering Instead, it means that you have changed yourself to be
“willing to suffere.”
 私たちは、ただ生まれたのではありません。「死として終わる生」を受けたのです。明るい生が必ず暗い死に終わるのなら、どんなにあがいても「人生は苦」です。さとりとは「苦がなくなる」ことではなく「喜んで苦しんでいける」自分に成ることです。

 皮肉なことだ、お大師さんの言葉がこんなにも解り易いことだったのです。今まで理解していた仏さんはなんだったのだろう。葬儀や年会・お彼岸のただの行事だったのか?宗教の根本は人々の心の持ち方を助けることだったと考えると、どの神さまもあまり変わらない。
 かつて、ローマ帝国がヨーロッパ、アフリカを支配地においた。その繁栄の源は各国の文化や宗教を尊重したことにあると言われている。
 いわんや、キリストやその聖者がマシンガンを乱射し、地球上を闊歩する漫画を描いたら、全世界のキリスト教徒が黙っているだろうか!

表現者は「なんでも描いても」、「書いても」、「云って」もよいと云う事ではない。来年こそ、民主主義に反する内外の軍団を「平和の力」で圧倒しようではないですか! 
 平和でなければ 137号
カレンダー
今年も労山カレンダーの出来栄えが気になる頃になってきました。多寡がカレンダーである。でも、私にとって贈ってくれる人の思いを感じるのです。どこの家庭でもカレンダーの種類やつるす場所がほぼ決まっていますね。

トイレに座り用をたす、扉には翼の長いグライダーが悠々と大空を舞っている。これは神戸の友人と労山のそれを交換する。毎年ここが居場所だ。彼は学生時代の滑空部の夢を今でも追っているのだ。
反対側の板壁には日曜版の可愛い子犬を飾る。これでゆっくり大も小も機嫌良く出る?それはそれは大切な品だ。

廊下の棚の扉には「山岳写真同人四季」が占める。1989年西穂から槍を目指したときに山荘で出会った千葉県の山岳写真家からの贈り物。又、違った山のレポートを見る。勿論、労山のものを送る。

「ひだまり」の和室には小学校の同窓生が12月の初めに持参してくれる。そう言えば何もお返しをしていない。毎月、美しい女性の和服姿が利用者の目をなごませる?永年、呉服の仕事を夫婦で商っている。

お佐代子さんの部屋には川崎重工の日本の美しい滝、川の写真だ。ここは大奥。

私のパソコンの上のカレンダーは「三菱ビルテクノサービス」。世界の動物の作品だ。月ごとの日付けスペースが大きいものだ。色んな予定が書き込めるから。この暦は「姉小路」から頂く。山好きの理事長に労山のカレンダーを贈る。

若い頃は遊ぶことや山行の予定満載だったが寄る年並みに、病院やマッサージ日の書き込みが多くなった。
そして、家庭菜園の野菜の収穫数だ。9月15日現在、ゴーヤ114本、茄子176個、胡瓜179本。ゴーヤ、茄子の量が昨年の半分だ。いかに不順な夏だったろうか?そんなことを教えてくれる。うちのカレンダー。

ところで労山のものは?上記の3人の友に贈るのです。されど出来栄えが気になります。本年も3本をお願いします。 
 
 平和でなければ 136号
うわさの「火花」
 羽田圭介さんの「スクラップ・アンド・ビルド」と又吉直樹さんの「火花」の2作品が第153回芥川賞に選ばれた。羽田さんは直後の記者会見で「火花の方が面白い」、又吉さんは「私の作品を読んで本を嫌いにならないで下さい」と話した。何と謙虚な作家さん達だろう!あの傲慢な元NHK委員に聞かせてやりたい。

 誰でも2人の小説を読みたいと思うのは人情でしょう。書店では評判が先行し売り切れ状態が続いた。手に出来たのは文芸春秋の特別号でした。
 こんな本なので「ちゃんと読まなアカン」と猛暑の中、府立資料館の学習室に向かう。それなりの雰囲気で読みたかった。受験生や学生に交じった。

 読み始めて最初に感じたのは話題のお笑い芸人であり、その本がすでに何十万部が売れているとかがいっぺんに覆えされた。

 くどいほどのプロローグの中に作者の漫才にかける純でひたむきさを感じ始めた。
読手?をすぐにこんな世界に追いやる創作の発想と優しい言葉でぐいぐい引き寄せる、違和感を抱くころあいに、この小説の面白さがはじまるのでした。

 尊敬する先輩芸人との交流自身が芸論であり、漫才の脚本であった。こんなくだりがある「せやな、だから唯一の方法は阿呆になってな、感覚的に正直に面白いかどうかだけで判断したらいいねん。他の奴の意見に左右されず。もし、俺が人の作ったものの悪口ばっかり云い出したら、俺を殺してくれ。俺はずっと漫才師でありたいねん。このコーヒ美味いな」。

 終章、自分のスパークス(火花)が相方の都合で解散に追い込まれる。最後の舞台は・・・。そして尊敬する先輩がやがて本来のところからずれて行くことの幻滅、日の目を浴びずに消えて行く若い芸人の挫折も押さえた筆で描かれている、でも小説の終わり方としては凄く中途半端だった。

 なぜ「芥川賞」に選ばれたのか?人間がなぜ生きるのか、なぜこうも非生産的な事に頑張るかを読者に知らしめた。そして現在のきな臭い情勢にまともに向き合っていることが評価されたのでは。作者と共にこの賞を与えた審査員を讃えたい。                                                  (読みたいと思う人は石黒まで) 
 平和でなければ 135号
宇治川のうなぎ
  誰でも予感と云うものがありますね?先日、嫁さんと出掛けた宇治への散歩。JR宇治駅下車、時計の針は午前十一時を少し回っていた。うなぎを焼く美味しそうな匂いが漂い、思わず飛びついた。宇治橋商店街の「ふな栄」。
 
 焼きたてのうなぎ三片と二片の折りを一個づつ注文する。目の前で熱々のご飯をぎゅうぎゅうに詰め、うなぎを乗せ「うまそうなたれ」をつけてくれた。

 二つの「折り」を大事に持つ、商店街から少し入ったマンション前にベンチがあったのを思い出しそこへ向かう。その時、なぜか、自然に嫁さんの分を手早く渡した。「落とすのでは」との予感が走ったからだった。

 生まれがそうさせるのか? 早く食べたい一心か? 階段が十段ほどあり、その上にベンチがある。自分の「折り」を開きながらそこに座ろうとした。「するり!」と「うな重」が逆さに向き、階段のレンガの上に見事にひっくり返る。

 湯気を出した熱々の御飯が折りの形のまま階段に横たわっていた。あたりを見回した。誰も見ていない。階段にかがみこみ、かば焼きを二切れのせ、さらに無事だったあの「たれ」もかけた。割り箸もゆっくりわり、おもむろに食べ始めた。何と言っても高価な品々一粒も残さず食べ切った。タイルも食べてしまいそう。行きかう人は「何してはんにゃろか?」と時々見てはる。

 まずまずの味とこのスリルとサスペンスの昼食を楽しんだ?こんな美味い?うなぎのあとはデザートでしょう。今でしょう飲むのは美味い?コーヒを。これだけは喫茶店を探そうと宇治橋商店街に徘徊を始めた。

 宇治の友人にその話を送る。彼は「琵琶湖から流れる瀬田川、南郷の洗堰では一晩で何千匹ともいわれるウナギが網にかかったそうだ。下流の宇治川でもウナギが良く取れ、急流が生きのいい魚を育てた。その後、天ケ瀬ダムが完成ウナギも大幅に減少した」そうだ。

 メールの終わりに「宇治川の特にふな栄のうなぎは逃足が速い。取り逃がすことなくよくぞ仕留めたなあ」と誉めて貰う?
平和でなければ 134号
行ってみたかった山 
 今でも名前を聞いただけで心を揺るがす山がある。その山は通称カムエク(カムイエクウチカウシ山)だ。海抜1979.4m日高山脈の中央にそびえる。

 30代に「めいほう」に入会した、それまでは周りの友人と山行を重ねていた。結婚して嫁さんと何回目かの山が穂高だった。知識や研究心が足りなかったのだろう。
 その頃、流行りのフレームの背負子で上高地を出発。横尾で1泊、2日目ザイテングラードを登り穂高山荘でさらに1泊する。ここまでは「ノー・プログレム」。

 ここからが問題。山荘直ぐの岩場の登りで、更に吊尾根の通過、その上重太郎新道を下り上高地の道。フレームが岩角に当たり、急峻な下りに恐怖の連続だった。見かねた登山者が岳沢小屋まで付き添ってくれた。この事で労山に入会決意!

 山行きがない日曜日、雨天で中止になると図書館に通った。特に植物園のある府立資料館に。日本の山・世界の山の本を借り出し見入った。勿論、地図も。

 山の月刊誌「岳人」「山と渓谷」にも東北や北海道の山はほとんど掲載されなかった。大雪山、知床、利尻はメジャーであるが、心を揺らすほどではなかった。
 
その記述は北大の山岳部?の日高夏山合宿の中だった。かの山はヨーロッパアルプスやヒマラヤと同等に形成される、更にジュラ紀あのジェラシックパークの恐竜の時代だ。そんな山が日本に存在したのだ。

その名前が一番に気に入る「カムエク」。ヒマラヤ難攻の頂き「カンチ」(カンチエンジュンガ)ともどこか似ている。
 3番目に気に入ったのはアプローチのコイカクシュサツナイ川での岩魚の入れ食いの記録だった。アイヌの美しい響きの山名、川名。本当に心を揺るがした。

 それから少ししてNHKの秘境ドキュメントで「カムエク」が放映された。映像を見ながら、私の方が先だったと優越感に浸る?

あれから40年。今もその山は夏山特集、大学合宿の山にも選ばれない。青春の如く永遠に心揺るがす山として残ってほしい。「カムエク」(熊を転ばせた山)。 
 平和でなければ 133号
70歳の大学生
 卒論の意図「人間の生活を支えるための職業はその人の人生にそれぞれ異なつた影響を与え人間形成の変革を促すものだ。作家の準備として、自らの視点で他者を観察、考察、推察、洞察するという垂直の思考を養う必要がある。ドラマの梗概を卒論とせずに人間洞察を五枚(二千字)に凝縮するという課題を与えた。他者の異なった職業を見ることによっての存在証明書だ」。

 一昨年五月一念発起、心斎橋大学に通い出した。大阪が生んだ藤本義一が創立した学校。何を教えているのかと云うと小説、エッセイ、脚本、児童文学で職業作家を養成する。
 
 今更、物書きを志す?大それた目的はない。岩登りと同様に人がしていないことを遣りたい、それだけでした。私は第二七期生。

 現役の有名な作家、脚本家、テレビ番組製作者が講師だった。私の普通科は文章を上手く書けるように幅広い知識を身につけるための課程。授業は毎回楽しく言葉遊びを含めて時にはその場でプロットを書いたり、川柳、俳句、脚本のまねごとをする等の非日常の1年だった。

 特に興味深かったのは「感性の磨き方」。大学への道は「同じ道を来るな」、「通学電車もたまには終点まで乗れ」、世の中をよく観察せよ、自分自身でほんまもんを見よ。そして本をよく読め、芝居・映画も、書く材料は山ほどある。想像力を育め、そこから創作が始まるだった。

 十月には卒業作品に取りかかった。内容は冒頭の文にこめられている。学友にはすごい奴もいる。でも、育児や家事の合間に、働きながらも素晴らしい作品を仕上げる女性たち。意気込みが違う。彼女たちは昨年二八期の専門課程に進んだ。

 この女性たちが今年四月に「同窓会」を呼び掛けてくれた。勿論、二つ返事で参加した。男性一人・女性五人は今の授業の不満や作品作りの楽しさ困難さを次々と話し始めた。それは一年ぶりの若い作家さん?の熱い・熱い創作意欲がほとばしっていた。「又、呼んでや」と京阪最終便に飛び乗った。

 
平和でなければ 132号
饅頭こわい
 その店は北区北大門町にある。外観だけでは何を商いしているのかわからない。勿論、看板も上がってない石段の横にすこし大きな置き行燈に「御倉屋」と印してある。「旅館」?

 玄関のガラス越しに覗いてみると三坪もない所に右側に床几が置かれていた。二人掛け、北側にも三人掛けがあり、その奥はガラス戸。そこから苔蒸した坪庭が見えた。

 恐る恐る引き戸を開け「こんにちは」と二度呼びかける。返事はないが店内に入る。西側には小さな、本当に小さなケースに和菓子が並んでいた。十数品あった。値札はない?

 あの唐菓子「清浄歓喜団」の店とは少し雰囲気がちがう。あまり商売気がないみたい。其の事は少し遅れて出てきた女性の店員さん?の態度で解った。

 こんな午後の遅い時間に来て何を買うの? 気配に押されたのではないが、ケースの真ん中にあった「わらび餅」を買う事にした。パンフを見ると作家の岡部伊都子さんが「黒文字で切ると、薄紫の濾し餡が包まれ、もう一つとおねだりしたいほど美味しい」の感想。

 二個を購入する。あの菓子の教訓から、それなりの心と財布の準備をしていた。「お家で食べられますか?」と丁寧な扱い。

 早速、生協の抹茶入り玄米茶を入れる。直径二センチほどの大きさ、わらび粉の薄い皮に紫の餡が包まれていた。半分ほどほお張る、何んとも言えない奥ゆかしい甘さが口中に広がる。一つは嫁さんに残そうと考えたが、何度も襲う饅頭の誘惑に負けてしまった。  
平和でなければ 131号
最後の一歯 
 今朝、うがいをした時上顎の歯がぽろっととれた。すこし出血しているので再びうがいをした。上を向きガラガラとやりながらなぜか「最後の一葉」を思い浮かべた?そんな時に!

 オーヘンリーの短編小説でしたよね。希望を見いだせないまま病室に横たわる女性、担当医師に「私の余命は」と尋ねる。「病室の窓から見える木々が散る頃」。秋になり、そして冬が来る。木葉が舞ってゆく。最後の一枚になった時、その葉は何時までも消える事はなかった。売れない老画家の描いた見事な枯れ葉であった?だいぶちがいますかね!

 こんな話もありましたか?「贈り物?」。貧しいが仲良い夫婦が生活していた。夫は妻の美しい髪にいつも感謝と喜びを感じていた。妻は夫が父から譲りうけた金時計を大切にしていた。夫婦は互いにクリスマスに素晴らしいプレゼントを贈りたいと考えた。妻は自分の美しい髪の毛を売り、金時計の鎖を購入する。夫は金時計を売り、妻の毛を梳く櫛を買う。こんな筋では?

 オーへンリーはその当時まだまだ売れない作家で、寒い冬が始まる前に罪を犯す、パンや酒を盗む、人をだまして金を借りる、でもなかなか暖かい留置所には入れて貰えない。「警察と・・・?」。短編で様々な物語を私達に贈ってくれた。小学生の時?、習いましたね。「最後の一葉」。その後仲間で図書館に行き、「贈り物?」「警察?」を読んだ。
あれから何年たつのだろう。小さい頃なので細かいところは覚えていないが、こんな時に思い出す。私の「最後の一歯」。

 とりあえず、図書館に行こう。オーヘンリーの短編集を借りて、もう一度読んでみよう。誰も好きな物語がありましたね・・・。
 
平和でなければ 130号
行ってみたい国 
女性1人で映画を買い付け、翻訳、配給をする比嘉世津子さんが京都映画サークル例会にゲストで参加された。「今夜、列車は走る」だった。アルゼンチン国鉄労働者の物語。かつての日本の戦う国労を彷彿とさせた。

交流会の中で、彼女が「全財産を叩いて買った映画」と言われた「永遠のハバナ」。
 灯台の明かりが消え、街と人が動き出す。有名俳優は1人も登場しない。自分自身を演じる無名の人々の生活とハバナの街を映しだす。この映像を見たとき、この国「キューバ」に是非行ってみたいと思った。

アメリカに経済封鎖される中、町中は古い建物だらけ、交通機関その自動車はアメ車の旧大型ばかり、50年近くも乗り継いでいる。町にはその暗さは微塵もない。
1959年の革命後、様々な困難を抱えながらも、医療費・教育費無料、医師の人口比でも世界一、各国に医師や教師を派遣する平和の人道的外交を展開している。何よりも隣の大国アメリカの覇権主義と無法な経済政策に一歩もひかない誇りある国の心意気はどこからくるのか。

それはそうだろう!毎年あがる国保料、医療費、介護保険料、教育費。下がる年金・賃金・福祉、その上の消費税。この国はどこに行こうとしているのか?解決策が「戦争の出来る国」にする事とはどうしても納得できない。
 
本当の外交政策とは何なんだろう。日本が本当に仲良くする国は隣国の中国や韓国、中東の占領国や太平洋を越えた国の従属国ではないはずだ。

半世紀ぶりに、アメリカが国交を回復するという。急にハバナにも行きたくなくなった。大型コーヒー店、コーラの自販機並ぶが街なんて見たくもないが、西山とき子さんの「エキサイテイング・キューバ」を読み再び「行ってみたい国」となった。

2015.04
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平和でなければ 129号
急ぎ働き 
 池波正太郎の世界ではまっとうな盗人(ぬすっと)は「犯さず」「殺さず」、千両箱だけを獲り、煙の如く江戸市中に消えてゆく。目標になる店はいつも越後屋。ここで重要な任務がカギを開ける「引き込み」役。

「急ぎ働き」はよほどの事でなければ行わず、何年もかけ越後屋との接点を模索する。こま使い・番頭・女中に化けたり、あらゆる手管を考える。この辺りの「しかけ」が池波小説の面白いところ。
 
事が起こると、火付け盗賊改め長谷川平蔵は、盗人で改悛した男女を配下として使った。携帯も無線もない時代、盗人に関する情報を集め、江戸市中の「平和のために」はあらゆる事を考え実行した。

 それにつけても現政権の「急ぎ働きは」は危なっかしい。特に外交では、ペルリ総督の命には何も考える事なく軽率に発言、更に行動もする。まるで盲目の十字軍。そこには日本らしいやり方を無視した、「唯我独尊」の「鼻つまみの阿部」と池波は命名するであろう。

 その上、積極的ボランテア活動を少しも理解することなく、政府として3回も渡航をやめさせる事のみに終始、挙句の果て「暴挙」と云う。

 国民の半数以上が望む「原発の廃止」「東北大震災復興」「憲法を守る」の政治をすることなく、公共の福祉に反する事ばかりを続ける。もう、こんな人物に日本の政治を任せられない。江戸所払いを願うしかない。

日本の庶民は緻密な「引き込み」役や心強い「つなぎ」役の感覚を持った大老を望んでいる。馬鹿な「急ぎ働き」を止め、大岡越前守の教え「三方両得」を守ることだ。解るかな?解らないだろうなあ!

2015.03.
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平和でなければ 128号
 9つの交響曲 
敏也先生はこんな話から「交響曲第一番、曲の最初がプレイボールになると先行チームが二塁上でバットを振り始めると言う中途半端な?入り方。でも、その後の交響曲の基本となる。それは草むらから前足の爪をチラッと見せる獅子」と。

 第五番「運命」は第一音が四分休符で始まる、休符から始まる音楽など誰も考えつかなかった。オーケストラも迷った、あのフェルトベングラーさえも手が震えていた?

 コンサートマススターは指揮棒が胸の第三ボタンに来た時に弾き始めた。あまりにも合いすぎると「軍隊じゃあるまいし」と怒った。カラヤンも指揮台の床を足で「ドン」と蹴り、曲が始まった。
と見てきた如く先生は映像やキィ・ボードを弾きながら講義を続けた。作曲時期はベートーヴェンが耳の病を知り、「これからは全人類の幸福の為に音楽を」と「運命に闘いを挑んだ人」では涙を流さんばかり。

 極めつけは第九だった。その日、先生の服装がすでに巨匠の雰囲気を漂わせていた?故郷のボンで学んだ「シラー」の愛と平和の詩に感激し「我らにシラーの永遠を歌わしめよ!」と誕生。それも交響曲第八番から十二年後のこと。合唱付きも初めてだ。

 第一楽章から第三楽章までは静かに聴き入っていたが、第四楽章に入ると先生も唄い出す「おお、友よ」と歌い出し歓喜(フロイデ)を共にと、ベルリンの壁崩壊後の演奏会では「フライハイド」(自由)と唄っていたと話す。「講釈師見てきたようなウソをつき」そのもの。

 昨年末、3日間で9曲の交響曲を学んだ。巨匠の音楽を一層好きになった。今春、再び響先生の講義を受けようと話している!

 2015.02
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平和でなければ 127号
魔法の色鉛筆
短編小説の練習?その1 
昭和二六年十二月五日富山日々新聞の経済欄の小さな囲み記事から、富山市志水町三番地の煙草店山本新一郎(七十歳)さん談

 その年、十一月八日。前夜からの雪で、電車通りから入った志水町も15cmの積雪。朝一番のお客さん、小学生の高学年の男の子だった。「おっちゃん、色鉛筆売ってますか?」「タバコしか置いてないで」「こまったなあーどうしょ!」「家にある色鉛筆を貸してあげるわ!」「有難うすぐに返しにきます」その子は、二日後、母親と一緒に借りた鉛筆を返しにきた。その後、新一郎さんはそんな事があったことも忘れてしまった。
 
 一年後、その小学生が再び訪ねてきた。「おっちゃん、覚えてはりますか?」「だれやったかいなあ?」「おっちゃんに借りた色鉛筆で描いた絵が国連ユネスコ主催の平和いぶき展の最優秀賞に選ばれたんや」「そうか、そんな事あったかなあ、それでも、よかったなあ」。「賞状を貰いにニューヨークまで行ってきたんや」「どんな絵を描いたんや?」「戦火の中で子供たちが花を描いたり、動物と遊んだり、虹もかいたんや」「そら聞いただけでもいい絵やなあ」。

 店の奥で聞いていた新一郎さんの息子新太郎さん(三十歳)は煙草屋の店頭に「三色の色鉛筆」を十セット並べた。あの賞の効果?あっという間にそのセットは完売する。息子は親父と相談して、煙草店を閉店、新たに文房具店を開店する、「魔法の色鉛筆」と名付けた鉛筆セットを売り出した。市内の小学生が   その評判を聞きつけた。注文に応じきれないほどだった。学校指定教材となりさらに売り上げをのばす。  
 
 五年後、山本文房具店は幹線道路の付け替え工事で移転となる。現在、文房具店跡には小さな石碑が立っている。「魔法の色鉛筆誕生の地」。
平成二六年、三代目当主真太郎さんは富山駅前で県一番の文房具店になり、商工会議所の理事の席についている。真太郎さんは会議所主催で小学生を対象にした絵画コンクールを毎年開催している。テーマは「ピース」。

 山本家の家訓は、文房具店にせよ煙草店にせよ、物をただ売るだけではない、あの雪の朝の小学生のお客、その心に寄り添うことが商いの秘訣であると孫たちに教えている。

2015.01 
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平和でなければ 126号
清浄(せいじょう)歓喜団(かんきだん) 
何と大げさな名前何だろう。その上、京菓子を語る時この菓子を食べずして語るなといわれていたらしい。前から一度食したいと思っていた。

 先日、清水三年坂美術館の「根付け」を鑑賞した。明治、大正時代の工芸士の「すご技」を堪能した。この美術館は最近良く通う、観光地のど真ん中にあるのに、人も少なくゆっくり「ほんまもん」が味わえるから。

 その菓子を売っている祇園石段下の「亀谷清永」まで歩く。どんな形、どんな味とも知らず、店内に入る。「清浄歓喜団は一つでも買えますか?」と尋ね、二個を注文した。和菓子だから値段は高くても二~三百円と思い小銭を持ち待つ、しばらくして小さな紙袋に入れた商品を手渡された。「御幾らですか?」「千三〇円頂きます」だった。驚いて札入れを出し支払う。

 店員さんは私の心を見透かしたように「お茶が用意してありますので飲んで行って下さい」と声をかけてくれた。甘い新茶を味わい。少し心が落ち着く。
                
 早速、「どくみ」をする。小さな紙袋から取り出す。形は「きんちゃく」状、固い茶色の衣に覆われていた。パンフを見るとそのまま電子レンジで少し温めて下さいと。玉露入り玄米茶を用意する。

 すこし、温めたぐらいではカチカチで、ナイフで切ろうとするがバラバラに崩れてしまう。中の「あんこ」は白檀、桂皮、竜脳を練り込んであるそうだ。
 奈良時代、遣唐使によりもたらされた。天台宗・真言宗のお供えものお下がりを貴族が食し、一般の人の口には入るものではなかったようだ。

 私はこの唐菓子の名前を読み変えた「心を洗い、生きる喜びを教えてくれる団子」。味は抹香臭く、感動の少ない菓子だった。でもこの大げさな名前は、なぜか体に暖かい風を吹き込んでくれたように思った。正月にお試しあれ!

2014.12 
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平和でなければ 125号
日々 
 初めは何気なしに聞いていた。単純な節、同じ言葉を繰り返す?歌詞と思っていた。最後の小節と思われる詩に思わず涙が出そうになった。

「おじいさんはからだをこわし、おばあさんは一人ないた。「伝えなくちゃ大切な気持ち、いつも本当に・・・」。出逢った日、恋に気づいた日、結婚した日、別れたいと思った日、子供を抱いた日、手を離れた日。あふれる涙よ、これは幸せな日々、涙の数だけきっと幸せな日々」。

作詞作曲は吉田山田。面白い名前のグループの「日々」が昨年来秘かに口ずさまれている。素晴らしい歌詞と誰でもすぐに覚えられるメロディー。「みんなのうた」はNHKの良心かもしれない?
 
高校を卒業した頃、NHKのテレビ番組で西郷輝彦の「17歳のこの胸に」が流れた。毎日放映されたので歌詞は自然に覚えた。「空を真っ赤に染めながらどこ行く夕陽、ひとり旅そっと呼ぼうか思い出を17歳の・・・」。旅に青春を感じたのだろうか?
 歌はその時々の自分の気持ちに寄り添う、人生を変える、励みになる、反省する、希望の歌となるとしたら、歌い手、作り手、聞く手が幸せとなる。
 
「おじいさんはおばあさんを呼ぶ時も名前じゃ呼ばない、怒った顔が、いつもの顔、ただうれしい時には口笛を吹く、お気に入りのニット帽はおばあさんが編んだ、子供の頃のように有難うが伝えられない。泣かせた日、家を出て行った日、抱き合えた日、背を向けて眠った日、希望を持たせた日、それを恨んだ日、あふれる涙よ、やけにデコボコな日々」

改めて「心」や「気持ち」を伝えるのは毎日「日々」使う言葉でいいのだと感じた。さしずめ、「ありがとう」「おおきに」!

2014.11
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平和でなければ 124号
綾野剛のCM 
 うたた寝をしていると、テレビから「独裁者」ヒットラーの声が聞こえてきた。
「これだけは伝えたい、絶望してはいけない、自由は決して亡びる事はない。君たちは機械でない、家畜でもない、人間なんだ。君たちには力がある、物を発明する力が、人生を美しく自由に、素晴らしい冒険に変える力が。」「闘え自由の為に!闘え自由の為に!」。
私は起き上がりそのCMをしっかり見た。

綾野剛が会社の洗面所で身だしなみを整えている後姿が映り、上記の言葉が字幕で流れる。それは就職情報誌「DODA」のものだった。

無声映画を製作していたチャップリンが第二次世界大戦の危機を感じ、トーキー嫌いが喋りまくった世紀の6分間の演説だった。  
本箱の奥から「独裁者」の古いパンフを取り出して、演説の原文を再読した。こんな内容だった。

「私は皇帝になりたくない、支配もしたくない。ユダヤ人も黒人も白人も人類はお互い助け合うべきである、他人の幸せを念願として、世界には全人類を養う富がある。人生は自由で楽しいはずであるのに・・・・・・」

今、日本の政治は「戦争を出来る国」にする寸前である。そんな謀略から脱する糸口はいくらでもある。このCMを製作したスタッフにユーモアと時流を見る目を感じる。

 民主主義の根幹は「自由」と「話し合う」こと。憲法・国会・地方議会を無視する総理大臣・元都知事・大阪市長はどこかの「ガキ大将」。
姑息な手段で自分だけの考えをゴリ押しする独裁者そのものです。

2014.10
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 平和でなければ 123号
本当の演奏会
どうしてこんなコンサートに出合うのだろう?それはまるでアンコールの協奏だった。券を購入した正月、そんな有名なピアニストとは知らなかった。「ベルリンシンホニカ」の名前とプログラムに惹かれたのだ。

 シューベルト「未完成交響曲」で始まった。百五十人体制の堂々たる演奏で、おなじみのメロデイーが力強いハーモニーで奏でられた。さすが「ベルリンフィル」に並ぶ「音の魔術団」だ。

 真赤なドレス、堂々たる体格のウクライナ生まれのバレンティーナ・リシッアが演奏するベートウベンのピアノ協奏曲「皇帝」は従来の形式を凌駕していた。男性の如く力強い奏法と女性の細やかさを兼ね備え、テンポはまるでジャズ仕様だった。万雷の拍手がホールを埋めつくした。

 そこから、シューベルトの「アベマリア」、「魔王」、「美しき水車小屋の娘」、
リストの「ラ・カンパネッラ」と四曲もアンコールを聴衆に贈った。感動の渦が三度、四度と私達を襲った。なかには涙を流している人もいた。

 交響楽団の「運命」も重厚な演奏でベートウベンの心を「これでもか」「これでもか」と迫り、酔いしれた一人々の拍手は止むことがなかった。ソリストが四曲もアンコールに応じたから、一曲だけで終わると誰もが思った。

 何とグリーグの「ペールギュント」に始まり、モーツアルト「フィガロの結婚」、ブラームスの「ハンガリー舞曲」第五番、エルガーの「エグニマ変奏曲」
を披露。どの曲も「祈り」「夢」「美」「平和」を表現している。

今、ウクライナが大国の波に翻弄されている様子をバレンティーナと楽団は「力では何も解決しない」、「文化で競い合おう」と言っているように感じた。それは私の感性だけでなく、聞きいった人々全ての確かな意思だった。

2014.09 
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平和でなければ 122号
新しい地図 
 まるで夕暮れの山里。肌寒い風が心と体を吹きぬける。私は少しでも明るい日差しを求め、ただ歩を進めるだけだった。
 
新年から頂に少し足跡を残せた。大文字山、船岡山、吉田山、双ヶ丘、稲荷山、小倉山、松尾山、天王山、衣笠山、清水山、そうだ、爪生山。西賀茂橋から三条大橋まで歩くこともできた。

私の白紙の地図に赤い線がまだらに走る。新たな始まりだ。まだ、心臓、肝臓、呼吸器に少し障害が残る。ドクターは「普通の生活を送ることと身体を動かしなさい」と奨める。身長165cm以前より2cmは縮んだ。体重54.8㎏若干増加。あの京大病院の後、ここまで来たのだ。

2012年の正月、船岡山に登る。その夜は寝汗をかき一晩中、動悸が収まらなかった。大文字山は少しも歩かないまま寒さでちぢみ上り、体が動かなかった。あれから2年、長くて短かった。

私一人の努力ではないことは言うまでもない、ドクター等病院関係者、多くの友人達。でも、毎日遅くまで付き合ってくれた嫁さんと兄には頭が上がらない。口には出さないが、感謝の気持ちで一杯だ。

労山に入った頃、山はひたすら高みや困難さを求める事が究極の目的と思っていた。でも、京都一周トレールに触れ、優しい、里山の稜線をやすみやすみしながらゆく、その道は人の温もりにあふれている。

今日は午後から、京都御所の海抜45mの三角点を目指します。人は沈みゆく夕陽に感謝しながら、自分の地図を染めて行こうと試みる。三屋清左衛門(藤澤周平作)の口癖「ひとにはそれぞれの流儀がある」が心に浮かぶ。

2014.08
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平和でなければ 121号
散骨の天皇 
 2008年2月から始めた京都周辺の天皇陵墓の散策、府下に全陵墓124基のうち71基がある、残されたのは淳和と清和天皇陵だ。どちらも小高い山の上にあり、散歩どころか登山だ。

 淳和天皇陵は西山方面小塩山(642m)にあり、ガイドブックでは約1時間弱の行程だ、登り口が少し解りにくい山だった。

 当日、嫁さんと2人で出掛けた、阪急電車からのバスの乗り継ぎも順調だった。予想通り南春日町バス停から登り口の道に迷い、花の寺の境内まで行ってしまう。元の天皇陵道に戻るのに1時間ロスする。

 時間はすでに10時30分になっていた。急登に次ぐ急登で息は上がるし、へとへとだった。突然、上から一輪車に乗った「いけ面」中高年男性が下りてくる。驚くよりも唖然とするばかりだった。
 その人に刺激されたのか、我々も頑張るだけ。12時過ぎ、高槻からの道に出合い、昼食とする。大休止の後、さらに上を目指す。午後1時前、待望の陵に到着する。

 この陵にこだわったのは、自分の死期が迫り、弟に遺言する、葬儀費用は徹底的に削減せよ。奈良時代後半の歴代天皇は民衆の負担を少なくする努力をしたそうだ、天皇の得をアッピールする事になるから。
 
その上、人が亡くなれば魂は天に昇る、地上に大きな墓を造っても、それは抜け殻に過ぎない。火葬にして、山の上からばらまいてしまえと命じた。今でいう「散骨」。

 何と科学的な発想でしよう。明治政府に利用された天皇陵墓?最後に残った愛宕裏、水尾の清和天皇陵にはどんなエピソードが秘められているのかたのしみだ。

2014.07
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 平和でなければ 120号
大笑いの芸術
  まあ聞いてください。こんな面白い作品展を鑑賞したのは初めてだった。先日、アサヒビール大山崎山荘美術館に出掛けた。友人のこんなひとことだった。「世の中にはすごい才能の人がいる」。

 会場が少し遠いので調べてみた。野口哲哉展・副題「野口哲哉の武者分類図鑑」。何も考えることなく、私はJRに乗っていた。

 全てを紹介すると面白みが半減するのでさわりを紹介しよう。「おそらく作り」の刀、「おもかげの腹巻き」と云う甲冑、「シャネル紋入二枚胴具足図」、「着甲武人視力検査図」、「猫鎧」、「サムライボックス」、「サンタクロース侍」、「着甲武人自転車出陣影」等だ。

 たまたま、火曜日で参観人が少なく、作品の一つ一つの前で大笑いをする。作者は34歳の新進気鋭の芸術家。当初は30歳で世に認められるはずだったが、仲間から4馬身遅れたと本人が言う。

笑いとユーモアと繊細な表現力、アクリルと化学繊維で製作された作品とおもえない数々。学芸員も「こんな開催は楽しいです。」と。まず海外で人気沸騰し、東京・関西だそうだ。

もう少しだけ秘密を、缶コーヒ「ボス」の鎧着用の小兵。兜にプロペラを装着した「ホバリングマン浮遊図」。「着甲武人猫散歩逍遥図」。「シャネル侍着甲坐像」。「誰も喋ッテハイケナイ」とヘッドホーンをつけた「武人」。作者はきっと戦うことのバカバカしさを表現したのだ!

極めつけは、木津川・桂川・宇治川の三川が見渡せるベランダの喫茶。
ミカンと竹炭のケーキ「黒田蜜柑兵衛」。まずまずの味。でも、お代は払いたくない?NHK? 7月27日まで開催。気軽にお出かけを。

2014.6
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 平和でなければ 119号
ぜんざい 
  花に誘われ、京都御所に出掛ける。夜半の風雨で生け垣の小道がまだら模様に染まる。嵐が強ければ純白だったのか。古稀を迎え、「老い」と云う言葉に定義があるならこんな風なことなんだろ。

 そんな事を考えながら御門をくぐり、寺町通りに出た。加茂大橋畔を右岸沿いに上る。右手に比叡、大文字山から稲荷山に連なる東山三六峯が一望の元に見渡せる。今年の送り火はここからと秘かに念じた。
 出雲路橋で左岸に渡り、更に北上する。「半木の道」の入り口近く、京菓子司「長生堂」を目指す。喫茶部の季節限定品が以前から気になっていた。春冬期の「ぜんざい」。夏秋期の「かき氷」。

 まるで噛む寸前にほぐれる様な感覚だった。その音が聞こえてきそうで耳をそばだてていた。身体の中心部から悪寒が走る、腕を見るとうぶ毛が逆立っていた。最上級の大納言小豆の甘味と煮具合いがもたらす技か。こんがりと焼いた小さな二個の餅は、蜂蜜がとけるように喉元に降りてゆく、汁の温かい甘さと共に。椀の最後の一滴までなめるように口に入れる。
小皿の塩昆布を口直しにと言うが私は残した、この美味さを候元に留めて置きたかったから。煎茶もそのまま置く。

支払いをしながらレジの子に感想をそのまま伝えた。その女性は笑顔で「有難うございます。この大納言小豆を作った職人さんにそのまま伝えます」だった。味にはよほどの自信があっつたのだろう。気持ち良く「半木の道」を北山駅まで歩く。

小さな春に誘われ出掛けた散歩、記憶や味覚がまだら模様になるこのごろ、舌先に残されたあの「ぜんざい」の甘味が泡のごとく消えゆくのを惜しみながら、私の「老い」と向かいあいたいと思う。

2014.05
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  平和でなければ 118号
ハンバーグ日和
 気になる店だった。前を通るといつも肉が香る?いい匂いが食欲をそそった。正午頃だった。表には数名の女性が並んでいる。ウィンドウから覗くと中は超満員だった。「美味いのかなあ?」

 それから1ケ月後、思い切って出かけた。あまり牛肉は好みでない、特にあの香り、匂いはご飯のおかずになりきれないとの思いがあった。

 入り口の黒板に「早や、煮込みハンバーグ」・・650円と書いてある。11時過ぎ、客は我々2人だけだった。
 イケメンのお兄さんが注文をとりに来る。ハンバーグは150g、180g・・あと2種類はあった。私はハンバーグ、連れはオムライスを注文する。
 11時30分を過ぎる頃に、若い女性客で20ぐらいの席、カウンターが占領された。男性陣も入ってくる。「美味しいのや!」

 しばらくすると、大きな皿に直径6cm、厚さ2cm位。横に付け合せの野菜がのっていた。ハンバーグは皿一面のデミグラスソースの上に、何とも食欲をそそる色、匂いだった。ライスと味噌汁もついていた。小さくデミソースに粒マスターをつけて食べてくださいと書いてあった。

 一口食べて「あっ」と思った。肉汁独特の臭みがない、米との相性は抜群だった。180gを瞬く間に食べてしまう。「美味しかった!!!」
 
 勘定をすました。厨房には更に2人のイケメンがいた。「なるほど、若い女性が・・」「気になる店でした。来てよかった」「有難うございました」
グリル「デミ」の名刺をそっととる。美味しそうなハンバーグに「本日、ハンバーグ日和」と記されていた。外は寒空だった。
店は夷川室町東入南側

2014.04 
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 平和でなければ 117号
私の仕事館
 アムール虎、三頭は兄妹と母親だった。それぞれの檻が鉄製の空中通路でつながっていた。兄の檻にはガラス張りの観察窓があった。

 カメラで、其の怒ったような大きな目を写したかった。何回もシャッターを切ったが、動きが早く満足のいく写真はとれなかった。

 顔は大人が両手で丸を描く程の大きさ。手足は野球のキャッチャーミツトの様に太かった。雄の成獣は300㌔は越えるそうだ。体長も尻尾を合わせると4mは楽にある。

 突然、巨大な体を「ひょい」とジャンプさし木製の台から上部にある空中通路に登った、周りの子供たちが予想もしない動きに「ワオー」と叫ぶ。今度はそこを行き来しだした。

 しばらくして、兄は運動に飽きたように木製の台の下に入る。大きな身体を横たえると目をつぶった。子供たちは「起きて!」「起きて!」と叫ぶ。

 まるで落語の「動物園」を見ているようだ。不精な男が昼から働いて大金を貰い、夕方には帰る、そんな楽な仕事はないかと大家に相談する。移動動物園の着ぐるみの仕事ならあるという。男はその仕事に就くことにする。

 係の人から、虎の歩き方や動物園での注意事項を教わる。でも毎日イベントのライオンとの対決がある事もわかる。いやおうなしにその時刻が迫る。恐ろしいライオンが虎に近づいてくる。虎は恐怖でどぎまぎしていると、ライオンは虎の耳に小さな声で「私も仕事やさかい」。

 帰り際もう一度、アムール虎の小屋に向かう。兄は寝そべりながら薄眼を開けて、われわれを見ていた。その目は悲しそうにあのシベリアの大地に返してくれと叫んでいるように思えた。

2014.03 
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 平和でなければ 116号
女子会乱舞② 
 桜木紫乃の小説「無垢の領域」(Area of innocence)にこんな描写がある。「人が流れ去り華やかな週末が記憶の中に埋もれても、景色はそこに在り継ける。潔い老いというものがあるのなら、たぶんこんな感じなのだろう」。

 小説家としてこんな文章がかける彼女の感性に心が震えた。直木賞を受賞した「ホテルローヤル」(hotel Royal)はその頃、どの本屋でも売り切れだった。しばらくして、やっと読み始める事ができた。

 この本の素晴らしさは組み立てだ。プロローグは恋人同士が廃墟のラブホテル(ローヤル)に向かう。女性は男の願いで過酷なダイエットを始め、ヌードで彼氏の前にたつ。成功するのか何の保証もない応募写真に身体をはる。その恋も男の何気ない「お互いの実家に顔を出そうよ?」の一言に恋の終わりを予感さす。
 
 エピローグは終わりそうな不倫の恋人同士の再出発を予感さす、妊娠している彼女に男が優しい言葉をかける。真夏のミカン(ローヤル)が畳にこぼれ落ち、中古ラブホテルの経営に乗り出す決心をする男。

 京都生まれの藤野可織の小説「爪と目」。2013年前半期の芥川賞を受賞。
どうしてこんな発想出来るのかが第一の印象だった。三歳の子供から見た「バツいち」の父親と恋人のお話。
 何とも難解な小説だ、理解しようと思うが出来ない、でも読まなくてはいられない。でも、後味があまり良いとは言えない、と私の感想。
「嫌悪と快感を律動的な文体で描ききった戦慄の純文学的恐怖作」と単行本の帯に書いてある。正にその通りであった。

 同じ京都生まれ澤田瞳子(作家澤田ふじこの娘)の「二人女房」(京都鷹ヶ峯薬草園)は京都らしい小説。親子二代にわたる京都を舞台に人情の機微を上手く描いた佳作。文壇は女子会の天下である?
平和でなければ 115号
女子会乱舞
 嫁さんの部屋の明かりが灯っている。「遅くまで何してんにゃ」「この本が面白いので」、「誰の本や」乃南アサ、題は「地のはてから」。

 私も読みはじめた。北海道開拓史を女性の目から描かいている。家族と共に本州から逃げるようにやってきた大地、「豊かな土地」と約束した国家?「夢の土地」と信じて、「生きて、生きて、生きる」物語。

 作者が描く開拓魂は読者をぐんぐん引き付ける。つらぬく東北弁が読むうちに味となる。その筆力は女性らしさだけではない凄みを合わせ持ち、2012年中央公論文芸賞に値したのでしょう。

 とにかく、いま、小説の世界は「女子会乱舞?」と思われる。2013年「松本清張賞」を受賞した「月下上海」の山口恵以子さん。

 日曜版の「ひと」にも掲載される。早稲田大学文学部卒業後、現在は丸の内の社員食堂のおばちゃん、かたわら小説を執筆する異色の作家。

 対談の中でも作者の性格が出ていた。「細かい事は気にするな」「料理も少しぐらいの失敗はごまかす、小説もともかく最後まで、不出来気なら書きなおす」。

 物語も正にそのまま、我々の生活?とは少し異なる財閥令嬢。 八島多江子
はスキャンダルを逆手に人気画家にのしあがる。そして戦時統制下の日本を離れ上海での生活。多江子が巡り合う男。憲兵大尉、中国資本家、抗日運動家、前夫の4人が織りなす女性活劇物語? 今、運命の歴史が回り始める。主人公の生き方と作者の筆との競い合い!

 次号は2013年直木賞「ホテルローヤル」(作桜木紫乃)と芥川賞「爪と目」(作藤野可織)を紹介します。とにかく小説の世界は女子会乱舞!
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 平和でなければ 114号
どくだみ乳液
 上顎の歯が2本になる。13年前だった。ドクターは「このままいけば1年で上下全部が義歯になりますよ」と脅された。私はそのとき歯だけと違う事に気づく。
額に三本、頬が垂れて、首筋がしわだらけ。これでおかしなことを言い始めたら・・・介護保険のお世話になると思った。これは先に報告しておきます。歯は今も13年前と同じです。念の為に。

そんな時テレビの「徹子の部屋」に田中宥久子さんが出演して「7年前の顔になる顔筋マッサージ方法」をしていた。

あれから12年間、その方法を風呂上がりから始めた。マッサージですから乳液がいる。初めの頃は嫁はんの物を使ったり、馬油等色々試してみた。この5年間は百円均一の「どくだみ乳液」にはまっている。

この製品は百円均一の「隠れたヒット商品」と言われているそうだ。
店舗の棚に並べると買い占める人がいるとも聞く。

 ところで、マッサージの仕方だが、風呂上がりに鏡台の前に立つ。
乳液をたっぷり両手につける。顎の下の首筋を下から上に20回マッサージする。次に同じように両手で額の中央から左右に引き、頬に下ろす。これを15回繰り返す。

 最後、ここが一番肝心です。両の頬にたっぷりの乳液をつける。特に人指し指に乳液をつけ、頬を両方の人指し指で下から上に上げ、ここが肝心です。両手で頬を撫で下へゆっくり下ろす。これも15回繰り返す。

 12年の効果は額の三本のしわが消え、首筋のしわも減り、頬が突っ張ってきた。と私は思っている。信用できない人は私を見て下さい。
 銭湯でこれをすると他の客が怪訝な顔をする。これが楽しみ?
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 平和でなければ 113号
真の老舗
  自転車でいつもの「喫茶店」に出かけた。カウンターの自分の席?に座る。何も言わなくてもコーヒが出る。
 
突然、「客に気を使うのが嫌になってなあ」「こんな仕事をしていて、字を書くのも億劫になってきた」「店を売り払い、マンションに住んで、ゆっくりしたい」と云い出す。

 私はこの「○×」店のコーヒが京都一だと思っている。一番は香り・
風味、二番は文句なしに美味い、三、四がなくて五番目は早い、六番安価(二八0円)、七番「威張らない」八番は友人の店。ちなみに、イノダコーヒは「味が濃すぎる、高い(五百円)、待って飲む、威張ってる」。待って飲むコーヒなんてコーヒでない。

 柳池中学(現御池中学)、同じクラスになったのだろうか?クラブは二人とも山岳部だった。なぜか気が合う、馬が合う。彼の親父さんと三人で富士山に登った。費用のほとんどを出してもらう。

 親父さんは寺町二条で「喫茶ユニオン」を営んでいた。いつも、店の前にはドイツ製の単車「ツンダップ」が置いてあった。赤いベレー帽をかぶりコーヒを入れる。男として「憧れの人」だった。

 なかなかの頑固な人で味にこだわり、価格は安価で何十年もそれを押しとおしていた。その親父さんに彼は生き写し。

 京都一の「美味いコーヒ」が飲めなくなるが、「そんな思いまでしてやるな」、「あと、二年かなあ、もうすこしかなあ」。私はコーヒの味を舌にしみこまし、カウンターから立ち上がった。

「ユニオン」は左京区東一条万里小路角
 平和でなければ 112号
100回の雰囲気
 私が参加した理由は新たな友人を作ること。料理を作るより、その事に興味があった。10年前だった。

「おかしな切り方をする生徒を見て、大笑いする」協調性ある先生。「家庭でも本格的に作るのがあだになり、進み過ぎて間違う」Sさん。「味はどうやと云いながら何回もつまみ食いする」Iさん。「ご飯炊きは僕の役目と段取りする」Tさん。「必要な物を直ぐに渡してくれる優しい」Sさん。「アー疲れたと何もしないで椅子に座る」月1回なのに毎日集まっているような気持ちにさせる、こんな空気が好き、大好きです。とYさん。(よう観察しているなあ)
 6年前の記念誌は「新たな出会い」とした。食後のコーヒータイムは続いている。100回×約8人=800杯飲んだのだ。
 
例会の食材購入時に会計のY君と購入総額を予想する。最近はピタリと的中する。これも継続の力。勝ち負けは?価格の学習をしています。ところが受けていた私の「親父ギャグも」最近は不評。「しまった、しまった島倉千代子」

 2冊目の記念集を作りだした。レシピの一覧表も作る。100回×5品=500品を口にした。よく考えると、それまでの食事は70年×12ヶ月×30日×3回×5品=378000品。驚くべき数字だ。

さらにそのほとんどを母親、嫁さん等女子会が作っていたことだ。男性陣は素直に感謝とお礼と・・・行動を起こさなければ。100回以降のテーマは「家族とともに」とした。

 「教室」の設立・運営に全面支援を頂いた生協関係者、「京都友の会」、塩貝芳子先生には感謝してもしきれません。本当に有難うございます。 

人生とは良いクルー(仲間)を探す旅かも知れない。
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 平和でなければ 111号
旅・あおいとき④
 誰でも山を始めた理由がある。優等生の答えは言わなくても解る。忙しい仕事の合間に雄大な自然を堪能する。仲間との語らい、おいしい食事、酒。次はあの山に行こうと。

落ちこぼれの場合は現実からの逃避行だった。人生に対する大きな目標を持てなかった。他人は全て優秀に思えた。毎日、劣等感を友としていた。近くの山や川は最高の逃げ場だった。

19歳、初めてのボーナスは年末に出かけた一人旅。夜行列車での下関への旅だった。満員の車中は正月を控えなんとなく華やかであった。   

私は一人ぼっち。そんな状態の旅は挫折となった。石見大田付近の小さな駅で下車。寒風が吹き抜けるホームは裸電球が揺れていた。進駐軍のシュラフに包まり一晩を過ごした。

そんな苦い経験が近くの山となり、山の本を読むことにもなる。

会社の仲間や夫婦で行った表銀座や穂高では、槍の登りや吊尾根・岳沢の下りは恐怖の連続だった。

労山の入会を決意させたのもそんな時だった。会には岩をする人が大勢いた。生意気に私もその魅力に魅せられた。

私の旅も形を変えて進んで行く。30~60歳を青春と呼ぶなら「人生の目標?」でも、「あの岩、この壁」と思った!

仲間と馬鹿になるほどの金毘羅通い(京都の岩場)が始まった。毎週、毎週が充実していた。

自然生(じねんじょ:山の会)の仲間と巡り合う事になる運命だった。S氏とは岩だけでなく、釣りや器も教わる、3日違いの兄さんだった。彼は志津川で岩場を開いていた。私は宇治行きの回数券を購入していた。
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 平和でなければ 110号
旅・途中③
  何年前だろう?プラナンは2回目の海外だった。3日に一度、レスト日があった。朝食後、「カタコト」の英語を武器に散髪屋に出かけた。前交渉で整髪は60円。電気バリカンで裾を刈る、サイドや頭部をすかしてゆく。どの国も同じだった。そのうち心配顔のTさんの子供達がカメラ片手に様子をみにきた。カット・シェイブと中学生英語で10分であった。無事、散髪を終える。占めて300円。

タイ風ヘアーでクラビ市内に繰り出した。河口に面した、ウツドハウス風な喫茶店に入る。ヤンキ-娘3人組み。読書の外人、朝食中の男性、奥のカゥンターから可愛いタイ人が注文を聞いてくれた。コーヒーを満喫する。
川に面した通リには、柳の木々が風になびいていた。公園の木陰には旅人や土地の人が休んでいる。タイに来て、初めての「至福の時間」だった。これや、これが旅なんや。


函館空港への出発には3時間ほど自由があった。朝市も少しだけ見る。すぐに飽きてしまう。いつものコースで「散髪屋」を探した。
 
早朝なのでまだ開店していない。国道沿いに1軒の理髪店を見つける。
ここもまだ、サインポールが回っていなかった。あきらめて次の通りを行こうとした。急にその店のオカミサンらしい人がでてきた。「散髪ですか?」と尋ねてくれた。

 刈布を被せられた。「どんなカットに」「スポーツ刈りに」。「関西からですか」「京都です」「いいですね京都は」といつもの会話が始まる。

 「あの優勝カップの様なものはなんですか?」「江差追分のコンクールのカップ」ですと櫛と鋏を使いながら話し出した。声の出し方、予選の様子を・・・。
私は心の中でも旅をしている自分を感じた。これや、これなんや。
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 平和でなければ 109号
旅立ち②
  長崎道への脱出はドライバー泣かせの道だった。熊本に進路をとる。九商フェリーの乗り場に到着。間もなく高速双胴船が入港する時間だ。

 95年に噴火活動が収束した普賢岳が頭上に見えだした。「あっ」と云う間の40分だった。

想いおこせば、高校時代修学旅行は経済的な理由で参加できなかった。
5日間、家にこもっていた。そんな事で新婚旅行も九州を選んだ。どこに行きたいとかは何もなかった。ただ九州だった。

 下船後、時間があるので島原城、武家屋敷を見る。今年一番の寒波の襲来で気温が下がってくる。見物、写真もそこそこに。

 火砕流が流れた水無川を右手に見て山麓を迂回する。仁田峠下のロープウエイ乗り場あたりから西側小浜方面に下る。行き交う車は途中の雲仙温泉の湯けむりの中に消えていった。

 それから15分ほど暮れなずむ57号線を下り「望洋荘」を目指す。ほどなく海岸線にでた。そこら中が温泉だった。昨夜にここに決めておいてよかった!スマホでとった宿だった。

 夕食前、この旅、初の?温泉入浴となる。少し熱過ぎる感もあるが、快適な時間だった。心まで温もった。

 あの溶岩ドームが崩れ落ち火砕流の発生で多くの人が犠牲になった。
そんな暗い日々を微塵も感じさせない「島」だった。

 そして、ひたすら、無計画な旅への憧れは70歳になっても続いている。船はやっと紀伊水道にさしかかり一路、志布志に。
  平和でなければ 108号
旅の終わりに①
 復路のフェリー。食堂横、踊り場で若いミュージシャンの演奏を聴いた。西アフリカの「コラ」。ハープの原型といわれる楽器だった。二人は夫婦で2歳ぐらいの子供もいた。乗船前に改札で出港を待つメンバーだった。

歌は現地語で唱われ、メロディーは日本人好み、哀愁に満ちていた。言葉を持たない民族の歌。魂の叫びのように聞こえた。

「アフリカへの旅」。この楽器に巡り合い、これを生活の糧に。「コラと共に旅へ」。妻に出会い、子供の誕生。そして「旅」生活が終わる。

現在、宮崎県綾町で有機野菜を作り定住生活をしているそうだ。夜は、早く電灯を消し、月明かりで生活している。闇で見えるものがあるという。

演奏の間に、「子供の事」「大震災の事」「原発の事」「沖縄の事」「アメリカの事」「村の事」を話す。妻は絵描きとジャンベの担当。

福島は震災前、自然豊かなところで何回も出かけた。飯館村に。でも、震災以後は行くことが出来ない。子供の為に。行かない。と

 その後、日本語で数曲唄われたが、あまり心に滲みなかった。でも「コラ」のメロディーは周りの聴いる人々の胸に落ちていたように思う。

 我々4人は船室に戻り、旅の反省会を開いた。ミューシャンの生き方、我々の生き方が話題となる。

それにしても若い人には何をするにつけても困難な時代となっている。

あの3人の家族が望む生き方が、親、子供、孫・・・と永遠の連鎖のように実現することを、秘かに願い「会」を終えた。船は周防灘を東に大阪南港を目指していた。
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  平和でなければ 107号
ストッケ
 居間兼、台所兼、書斎?の1間。パソコン机の下に10cm位の細いネジ状の物が落ちている。朝食のトーストを焼いていたので、食べてからにしようと思った。「なんやろか?」

その朝、BSN響のクラシックはベートーベン「第3番」だった。ナポレオンの気持ちで2枚のパンをゆっくりと食べる。日曜の朝はこれに限る、早起きは「三文の得」。午前6時50分だった。

 ネジは椅子の横に落ちていた。座席が動く?固定する箇所が2ヶ所あった。ネジ山には保護カバーがある。1つはしっかり締まっていた。

 座席と足を固定するためだったのだ。そういえば半年ほど前からこの椅子に座ると腰の調子がおかしかった。

 早速、ドライバーで締めようと思って、頭のカバーをとる。6角形のへこみがあり、締めることが出来ない。

 「どうしよう?」と考えた、6角形と云えばアイゼンを締めるレンチしか思い浮かばなかった。これでだめならメーカーに送らねば。
 
アイゼンなんて今や壁の飾りものだ。思いつく所を探したがそんなものが有るはずもない。あの箱の中には有るかもしれない。ローソク、ボタン等に混じって大小2個があった。

まさか、ぴったり合うとは、大のレンチで締めなおし、座りなおすとお尻にぴったりだった。15年前、大阪梅田で購入した、ゆり篭のように前後に動くストッケの椅子なのです。大事にしな!
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